HICPMメールマガジン第776号(2018.06.22)
皆様こんにちは、
多分このメールマガジンはこれまでのHICPM事務所からお送りする最後のメールマガジンになります。次回以降は、7月上旬から、パソコンが設置されて作業ができるようになったら、川崎市中原区木月4-28-3ボウクス社に設置されたNPO法人住宅生産性研究会(044-433-4885、FAX:044-433-5117)から発信所します。
私は目下3つの病院を掛け持ち通院をしているため、週3回は出勤(事務所には10時から3時)から始め健康状態を見て勤務時間を延ばしていこうと思っています。老々介護体制で妻の協力が前提です。
第9回 わが国の特異な戦後の住宅政策環境(MM776号)
住宅政策に関係者の多くは、第2次世界大戦後の日本の住宅政策の西欧と同じ住宅政策と誤解している。わが国には住宅政策研究はほとんど行われておらず、住宅白書に記述された住宅政策やそれを下敷きにした御用学者の住宅政策史しか存在しない。それらの資料からわが国の住宅政策を正しく理解することはできない。1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で独立したが、その条約締結日と同日に日米安全保障条約が締結され、日本は米軍の兵站基地の地位を強制され、その枠内の住宅政策であった。
戦後の特異な「米軍の軍需産業支援」の住宅政策
1945年8月15日、第2次世界大戦で米軍の爆撃で国土が焼失し無条件降伏を受け入れたのち、占領軍の下で、日本国政府は戦争放棄を明らかにした日本国憲法が1946年に制定した。しかし、1952年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、日本国は米軍の兵站基地に組み込まれ、米ソ熱戦の戦時下で米軍に対する兵站活動により、軍需産業を復興させるための経済復興が取り組まれた。戦前のわが国の軍需産業を米軍のために復興する政策の下で、日本の戦後復興は米軍の兵站活動として始められた。
日本国憲法制定時に軍需産業資本(財閥)の解体が決定されたが、その方針は朝鮮戦争の勃発により覆され、軍需産業の復興が戦後の経済復興の基本に据えられた。政府は米国政府の要請で軍需産業労働者向けの住宅の供給を担い、国民の預貯金の運用として軍需産業労働者向け住宅への産業労働者向け住宅金融を旧軍需産業に住宅金融公庫を設立して行なった。戦後の米軍の要請に応える軍需産業に働く労働者向け住宅産業育成が日本の責任とされた。軍需産業(財閥)は重層下請産業構造を利用して復興されたため、産業労働者向け住宅では下請け労働者に住宅供給をすることにはならなかった。
戦後の日本は極度な住宅不足で国民の住宅要求が高かったが、政府は米軍の要求を優先し、住宅困窮者の救済は住宅政策の目的ではなかった。政府内部では戦後の英国政府の住宅政策に倣い、公営住宅政策の取り組みを占領軍に要求し、米軍の軍需産業労働者向け住宅と、国民の住宅困窮者向け住宅のいずれを優先させるべきかの議論が政府内外で起こった。結局、財閥企業に働く労働者だけでは実際の軍需産業は機能せず、低賃金で働く下請け労働者を確保するため公営住宅を供給し、低賃金労働者の確保に依存することになった。政府はまず、住宅金融公庫を設立して旧軍需産業(財閥)の産業労働者向け住宅制度を創設した。翌年、政府は政治的に軍需産業向けではないと説明したが、公営住宅法を議員立法で低所得向け国民住宅として制度化した。しかし、その入居対処は軍需産業の下請け労働者であった。
政治的に、政府の住宅政策は米軍に軍需物資を供給する軍事産業のためではなく、わが国の住宅政策の基本を国民の住宅事情の改善に置き、英国の住宅政策をモデルにした公営住宅施策と説明した。公営住宅を基本にした住宅政策は、日本国憲法に定めた国民の基本的人権と地方自治の考え方で、国民に恒久的な住宅資産を、英国の住宅政策に倣い整備すると説明がされた。わが国の戦災復興も、朝鮮戦争の突然の勃発で米ソの熱戦に巻き込まれ、米軍占領下で、日本が米軍の兵站基地とさせられ、旧軍需産業の復興がその政策目的にさせられた。しかし、その軍需産業の復興がわが国の経済復興になった。
サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約の関係こそが、住宅政策の置かれた全体像(独立国の体裁をとって、占領施策の事実上の継続という2重構造)を把握するカギである。日本の住宅政策は、米軍が朝鮮戦争をソ連と中国と互角に戦うために、わが国を米軍の兵站基地とし、旧軍需産業の復興を産業労働者向け住宅(社宅)とその下請け企業及び関連企業の低所得者向け住宅(公営、公団、公庫住宅)の政府施策住宅によって実施した。わが国の住宅政策は国内の住宅難に応えると国民には説明したが、住宅施策の全てが米軍の軍需政策に組み込まれ、国民の福祉を目的にしてはいなかった。
米国の極東軍事戦略に組み込まれた日本の住宅政策
政府は戦後の住宅政策を低所得者の公営住宅政策として実施し、その政策は英国の住宅政策に倣った政策であると一貫して説明してきた。しかし、その住宅政策の目的は、米軍の兵站基地で働く低所得の軍需産業労働者のためであった。それとは逆に、住宅官僚として建設省に送り込んでいた京大建築学科の西山夘三や京大卒で住宅官僚になった上野洋とが政府の住宅政策を立案する役割を担い、西山夘三著『日本の住宅問題』(岩波新書)や上野洋『日本の住宅政策』(彰国社)など政府の政策を国民向けに説明する書籍を多数発行し、政府の住宅政策を立案する立場を与えられた。京大卒業生は上田、牛見、井上、長谷川ら住宅官僚に採用され、西山は住宅審議会委員になり住宅政策の立案に関係した。
また、政府の住宅政策は英国の労働党内閣の住宅政策を日本の状況に読み替えた政策であると説明し、日本の公営住宅政策は日本国憲法に適合した民主的政策という説明を行なった。京大西山研究室が自民党政府批判の立場をとりながら、行政内部に入り公営住宅政策を進めた結果、日本の住宅官僚による住宅政策は政府の対米従属の軍需産業のための住宅政策とは異質な政策であると誤解させることになった。わが国全体が果たしてきた米軍の兵站基地の役割は対米従属的なもので、公営住宅自体が軍需産業に働く下請け労働者や関連産業の労働者住宅で、国民本位の住宅政策ではなかった。
1976年、ベトナム戦争で米軍が敗北し、米軍の軍需産業支援の必要がなくなり、政府が住宅政策の転換を余儀なくされた。わが国の住宅政策は軍需産業向けの住宅需要が消滅した、それまで政府が育ててきた住宅産業を救済する産業政策上の必要に迫られることになった。軍需産業向けの住宅政策を中止しなければならなかった。政府はその事実さえ政府内部でも秘匿し、国民に説明されなかった。軍需産業のための住宅需要が消滅したため、ベトナム戦争後に始まる住宅建設計画法で米軍との関係は切れた。住宅産業は、軍需産業のために国家が保護育成した産業であった。新しい住宅政策は、軍需産業需要に代わる住宅産業需要を、政府が新しく組み立てる政策であった。住宅需要はわが国の経済として大きな経済規模を占めており、その失われた住宅需要を生み出すことが政府の重要な政治課題になっていた。
「木造建て替え」住宅政策とプレハブ住宅政策
軍需産業の社宅や公共賃貸住宅需要に代わる住宅産業需要を引き出すため、政府は住宅建設計画法を制定し、政府施策住宅(公営住宅、公団住宅、公庫住宅)で住宅産業需要を創造した。国民の住宅事情は依然悪かったが、国民の所得は向上していた。そこで政府施策住宅により、住宅産業を救済するため、国民を最終の需要者とする住宅政策が、住宅金融政策を中心に展開された。国民の所得は向上し、家賃または分譲住宅のローン返済は見込まれたので、膨大な建設資金の準備が最大の関心になった。
政府は限られた財政資金を有効に使うことが求められ、高騰していた地価に財政支出が裂かれない方法が検討された。住宅産業向け政府投資が効率的に住宅産業界に投入されるよう、土地費を必要としない住宅建設を行なうため、既存の低層低密度の木造住宅を建て替え、「土地費を必要としないで住宅」を供給する「建て替え政策」が採られた。今考えると「既存木造住宅の建て替え政策」は、財政資金が逼迫していた政府が導き出した「土地代を必要としないで住宅建設を断行する」決死の住宅政策であった。
既存木造造住宅を「資産価値のない建設廃棄物」として取り壊させる理論として、政府が持ち出した理論が「減価償却理論」であった。政府は木造住宅の耐用年数は20年と公言し、木造住宅の建て替えを正当化した。この建て替え政策は既存木造住宅をプレハブ住宅に建て替える政策として実施されたため、住宅産業近代化政策として評価されている。当時、政府の建て替え政策に関係し、その基本は、「土地代をなし」とするために既存木造を取り壊し土地の地上げを行なう憲法違反の暴力的政策である。しかし、プレハブ住宅産業の発展と、「ストックの地価が高騰し経済成長が図られたため、建て替え政策への批判は、政府の金融機関を巻き込んだ強力な政策指導により押し潰され、大都市中心に拡大した。
金融主導の住宅政策
木造住宅の建て替えをプレハブ住宅と一体的に行う「地上げ」により進めた。地上げにはプレハブ住宅の生産販売システムの整備に匹敵する以上のエネルギーが使われた。都市を面的に建て替える大変革は、プレハブ住宅産業の商業・流通の人海戦術による販売戦略がなくてはできない事業であった。建て替えをするプレハブ住宅の建設工事費は、消費者の支払い能力を配慮し、わが国産業界で余剰になっていた鉄鋼を大量消費し、払底していた建設労働者に依存しない新建材と新工法を導入した住宅産業政策が、住宅生産工業化政策として、政府を挙げて進められた。そして、プレハブ住宅が消費者によって積極的に購入できるように、住宅購入資金は住宅金融政策とワンセットにして、住宅購入者が資金の準備をしなくて建て替えられるよう、住宅金融主導の高効率な建て替え事業が展開された。
プレハブ住宅政策は住宅生産近代化政策として、米国のFHA(連邦住宅省)が住宅生産の飛躍的向上を目指し、住宅生産を工場で行うOBT(オペレーション・ブレーク・スルー:突破作戦)政策を日本に持ち込んだ政策であった。米国では工場で住宅を生産したが、わが国では道路事情が悪くそれはできなかった。そこで、わが国では米国の向上住宅生産方式を採用できなかったので、プレハブ住宅産業ごとのプラモデル生産方式に置き換えて実施した。それがわが国のプレハブ住宅政策である。
都市計画法を裏返した農地を使った土地代浮揚の住宅供給
木造市街地建て替え事業と一体に取り組まれたプレハブ住宅政策と並行して進められたもう一つの「土地代なしの住宅開発政策」が、中高層共同住宅による市街化調整区域における大規模団地開発である。高度経済成長が始まり、1968年都市のスプロール化が将来の都市の混乱を予測させる事態となり、政府は英国の都市農村計画法に倣って都市計画法を制定した。そこでは都市と農村とを対立する概念として整理し、市街化調整区域は農地を保護し、都市のスプロール開発を押さえ、農地を保全するため、都市計画法が制定された。市街化調整区域の都市開発を押さえる代わり、農地の税金とした。
しかし、ベトナム戦争の突如の終戦で、土地代なしの住宅供給をするため、政府は市街化調整区域での住宅地開発を公共住宅団地開発として始めた。開発用地を全面買収した多摩ニュータウンや開発敷地の一部(40%)を先買いし、残りの土地を、30%程度減歩(公共減歩と保留地減歩)する土地区画整理事業として港北タウン、高蔵寺ニュータウンなどの大規模団地開発がおこなわれた。いずれも、農地価格で土地を買収することで生まれた住宅地開発であった。
これらの宅地開発は道路、公園、下水道、宅地擁壁工時など土木工事費が宅地造成原価を占め、土地取得費はゼロに限りなく近い状態であった。都市中心部では地価負担を少なくする中高層共同住宅マンションが市街化調整区域で政府施策住宅として、長期住宅ローンと一体で供給されることで、住宅購入者に購入できる家賃または分譲価格で供給されることになった。公的機関の団地開発が「地価を農地価格で開発できる」として、多摩ニュータウンをはじめ大規模開発が行われた状況を見て、民間のディベロッパーが公団や地方公共団体の宅地開発関係者を取り込んで、民間による宅地開発を実施するようになって、地価が上昇していった。
一般の宅地価格と比較すればタダ同然の価格で土地を強制収用し大規模開発を行ない、道路・公園・下水道などの公共施設用地を潤沢にとった公共事業として建設業者に巨額な利益を提供する開発として民間事業者に開発の中心が移された。その背景には政治家と官僚が都市計画法上の開発許可の利権をめぐる宅地開発事業を推進することになって、一挙に民間による都市開発は拡大した。
御用学者たちの学識経験
都市計画法の立法が社会的に問題にされたとき、わが国の都市は急膨張を始め、一晩に内に都市周辺の農地に文化住宅や木賃アパートが建設され、近くの電線から電気が引き込まれ(盗電〉され、形だけのし尿浄化槽からし尿が地区にあふれ、湿潤で悪臭が漂った。そこに多くの都市集中した人の生活が始まり、学校教育施設の後追い建設や、公共事業建設要求が発生した。都市基盤を整備しないと都市は混乱するようになると政治、経済、都市計画から問題になり、英国の都市に倣う政治的合意で取り組まれたのが、英国の「都市農村計画法」に倣った日本の都市計画法制定の取り組みであった。
土地の利権をめぐって都市的土地利用とするか、農業的土地利用にするかをめぐって、市街化区域と市街化調整区域の線引きが政治・行政・経済問題になり、「ゲリマンダー」と呼ばれる利権丸出しの線引きが行われた。それほど政治、経済、都市計画上問題になった都市計画法は、ベトナム戦争終了でタダで土地を利用する政策を実施するため、それまでの都市計画法上の議論が存在しなかったように市街化調整区域での住宅地開発が御用学者により正当化され、市街化調整区域が市街化区域以上に開発された。多くの御用学者はコンサルタント費用が得られる政策を支援し、都市計画法を骨抜きにしてきた。
現在、多摩ニュータウンを始め港北ニュータウン、高蔵寺ニュータウンなど中層共同住宅団地として開発された住宅団地を見ると、道路、公園など公的施設が潤沢に計画され、潤沢な自然環境が残されている。いずれも市街化調整区域の土地で、一般市街地と土地と比較すれば「地価ゼロの土地」で巨額の宅地開発事業費をかけ都市開発が行われた。ベトナム戦争後の政府の住宅建設計画法による住宅政策は、国民の居住水準の向上を政策目標に掲げ、地価負担を最小限に抑え、国民により広い床面積の住宅供給を行なった政策は住宅産業に産業需要を創造することで経済を発展させることが第一の目標であった。
国民は住宅会社が設定した販売額通りの住宅ローンを組み、又は、家賃を支払って、住宅を取得する役割を担わされ、結果的に国民の住宅が向上した。住宅建設計画法による住宅政策は、わが国の高度経済成長時代で国民の所得が順調に向上し続け、潤沢な住宅ローンが提供され、土地取得費用が実質的に取り除かれ、経済的なインフレが高進した。そのため、住宅ローンが実質目減りし、ローン痛が減少したため、消費者にとって住宅は政府が推奨するより広い住宅を購入し易い環境が進んでいった。
(6月22日、MM第775号)