メルマガ第729号「注文住宅」連載・第3回(米国の日本の比較)
みなさんこんにちは、
30年ほど前インドネシアで経験したシャワーと洪水(バンジール)が日本でも発生し、気候変動の影響に違いないと思います。夏になるとバティック(ジャワ更紗)を愛用しています。
今回は「注文住宅」の第3回目です。(米国の日本の比較)
建築士の学識経験と住宅教育
住宅により資産形成を実現するためには、どのような設計理論が、建築学として学校教育で教育され、職業教育として実践されているかを欧米の住宅産業との関係で調査研究をしてきました。4半世紀の官僚時代の住宅・建築・都市行政経験と、同じく四半世紀のHICPMでの住宅産業の調査研究を通して明確になったことは、住宅及び住宅地の設計・施工・住宅地経営に必要とされる学識と経験が日本と欧米とは全く違っていることでした。欧米の建築教育とわが国の建築教育は異質な教育であり、住宅の設計・施工技術者の実務経験も相違していました。その結果、日本の建築士による設計と施工技術者に依って資産形成をすることはできないことが分かりました。
日本の都市、欧米の都市
特に欧米の住宅を繰り返し継続的に調査することで気付かされたことは、欧米では、開発当初、居住人口と都市施設の充足の対応が期待通りに進まないように見えた住宅地が、数年たって出かけてみるといずれも計画通りに熟成していました。同様なことは、一般の都市の市街地形成に関しても見られました。自由主義経済社会でも、市民の合意形成によって作成された都市計画が定められると、都市は法定都市計画と合わせて地区詳細計画を使い、サブディビジョン・コントロールにより、街並み景観の優れた計画通りの都市が造られていきます。一方、日本では小泉・竹中内閣のとき「聖域なき構造改革」として実施された都市再生事業にみられるとおり、不良資産に悩む企業を救済するために、「徳政令」として都市計画法と建築基準法が国家の経済・財政・金融政策のために改正され、既存の法定都市計画は憲法を蹂躙した法定都市計画に変更され、違法な開発許可、総合設計制度の違法な許可、違法な確認により、大都市のスカイラインがすべて変えられてしまいました。
憲法の目的に矛盾する都市再生法の立法
わが国では、国民の健康で文化的な環境を憲法第25条を根拠に保障し、その実現のために制定された都市計画法と建築基準法がつくられています。しかし、その法律の目的によらず、社会・経済的な要求で、「聖域なき構造改革」という政治的な不良債権で経営不振に陥った企業を救済するため、開花的な規制緩和目標が設定されました。小泉・竹中内閣が掲げた「聖域なき構造改革」の「聖域」とは「日本国憲法」のことです。都市計画法や建築基準法がその憲法上の根拠とされている第25条に違反して改正され、「徳政令」として「開発許可不要」と、容積率を法律違反で増加させる建築許可による行政処分がおこなわれ、計画的な都市の建設や整備はできなくなってしまいました。
断行された政府による憲法違反
政府のバブル経済政策の失敗とその後の対策の失敗により、わが国の国家財政は破綻し、現在1,000兆円を超す国債の上に現在のわが国の財政が築かれることになりました。不良債権により破綻寸前の企業の債務を、「徳政令」で帳消しにし、さらにそれに便乗する公共空間の占有拡大を、法定都市計画で定められていた土地利用計画の変更で実現させる政策が都市再生事業で行われました。小泉内閣の竹中金融大臣の経済理論は、バルル経済崩壊による地価下落で生まれた損失分を、「聖域なき構造改革」を根拠に、国民共有の都市空間を不良債権に苦しむ企業に債務を帳消しにするために無償供与しました。
都市計画法及び建築基準法は、憲法第25条を根拠に国民に健康で文化的な生活を守るために存在する法律です。その法律目的ではない「不良債権で経営危機に陥った企業救済」を根拠に改正すること自体が憲法違反の改正です。小泉・竹中内閣の政権発足当初、財政収入が不足し360兆円の国債に依存していましたが、3次の内閣組み換えの間に国債は700兆円に拡大しました。小泉内閣は国家破綻に怯え、国家統治を非常事態認識により「統治行為論」を持ち出し、「聖域なき構造改革」を実施しました。
財政破綻の非常事態
「聖域なき」と蹂躙の対象とされた「聖域」とは日本憲法で、憲法違反の建築都市行政という「徳政令」で企業救済を行いました。企業に供与された容積率を高層マンション空間として売却し不良債権処理し、さらにその政策に便乗し、損失の回復を越す超過利益を「濡れ手で粟」しました。マンション購入者が子弟を就学させようとしたら義務教育施設が足りず、地方自治体は仮設校舎をつくり、それでも教室が不足した分の学童にはスクールバスで通学させました。義務教育施設が対応できない条件で都市計画法の「開発許可」は禁止されています。このような都市計画法と建築基準法違反行政により、都市再生事業が行われました。わが国の大学の住宅・建築・都市教育は政府の行政通りの教育をしてきました。
国土開発行政と住宅・建築・都市教育
都市計画法では学校教育施設等都市生活を支持そる施設が不足する状態での開発は許可してはならず、そのような敷地への建築工事は禁止されています。しかし、都市計画行政と建築行政は「聖域なき構造改革」の政治目標の実現のため、国土交通行政は違法な開発許可を与え、違法な建築計画に違法な確認済み証を交付し、マンションは建設されました。このように「徳政令」としての都市再生事業により、開発許可の基準に違反した開発許可が全国で数万件の規模でなされました。開発が行われた結果は、都市計画容量を超えた車両の出現などとなり、大都市の大震火災発生したときの大都市災害の原因となります。このように国家が憲法を蹂躙した行為をしても、国家としての統治上やむを得ないとする行政優先を正当化する理論を「統治行為論」と言い、1959年砂川事件で、日米安全保障条約は日本憲法に照らして適法化、違法かを裁く必要はないとした最高裁判所の田中耕太郎の判決が前例でした。
都市計画法の目的に反する規制緩和
わが国の都市工学、建築工学、土木工学では、政府の都市再生事業が政治の政策として決定されると、既存の都市計画法及び建築基準法が規制緩和を目的に改正され、法定都市計画は「徳政令」としての効力を発揮するように改正されました。「聖域なき構造改革」という「徳政令」の実現のために、これまでの都市計画や建築行政と連続性のない行政が行われました。わが国の都市計画法及び建築基準法は、「不良債権により経営不能に陥っていた企業だけではなく、徳政令に便乗して不正利益を上げる人のために利用されました。都市工学、建築工学、土木工学は、欧米の人文科学教育と違って、「徳政令」を実施する方針の下では、景気刺激が目的であれば、その実現のための学問として、都市・建築・土木工学は政府の行政方針に従って、スクラップ・アンド・ビルドを実行する教育を行ってきました。
人文科学教育としての建築学
欧米の人文科学としての建築学は、健康で文化的な国民の生活環境を長い国の歴史・文化・生活問題で取り組むことを教育の基本としており、政治や行政のご都合主義で振り回されるわけにはいきません。仮に法定都市計画を変更しなければならない事態にあっても、それは憲法第25条に定めた健康で文化的な国民の生活を実現するために可能なことで、不良債権で経営不能に陥った企業救済を理由に取り組まれることではありません。自由主義経済では経営に失敗した企業は消滅させ、それを肥やしに新しい企業が育つことで国家全体の経済発展が図られます。しかし、わが国では政治、官僚、産業界が癒着し既得利権を守るために、「徳政令」で国民共有の都市空間を私物化し、不当に供与する政治・行政・産業・御用学者の癒着です。そのような政治行政の不当性を争う行政事件訴訟は全国で数万件発生しました。しかし、住宅・建築・都市教育関係の学者研究者の多くは御用学者で、都市再生事業の理解者、支援者となりメディアに登場し、政府の片棒を担ぎました。住宅・建築・都市という人文科学的の考えなければならない分野の学識経験者で、小泉・竹中内閣の政治批判を行った例を私は知りません。
欧米の「人文科学」としての住宅・建築教育
欧米の建築設計・計画・都市計画・設計は、人文科学としての建築学で教育され、そこでは住宅・建築・都市を過去・現在・未来という歴史に根差す文化空間教育として行行なわれてます。建築思想や都市思想や都市歴史学を通して学習し、人類史的な連続性の中で建築や都市のあるべき姿を考え、計画する能力を培います。そのため、建築家はそれぞれの歴史観として建築思想や都市思想を持ち、固有な思想を建築設計計画や都市設計計画において具体化します。それが人文科学としての建築学の教育で、その計画や設計を実施する工学教育の目的とするところではありません。
日本の「工学」としての住宅・建築・都市教育
わが国の建築教育は工学教育で、建築設計や建築計画、又は都市計画、都市設計を歴史・文化・生活を考えた人文科学教育として行ってはいません。そのため、日本の建築系大学を卒業しても人文科学としての建築学を学んでいなく、人文科学的な思考訓練がなされていないため、歴史・文化的な見方や取り組みができません。目先の目的のために功利主義的判断に立ったスクラップ・アンド・ビルドをすることだけを考え、長期的な視野での住宅・建築・都市と取り組む判断をもちません。その結果、歴史的連続性を持って空間を形成し、熟成する取り組みは疎かになります。日本の都市計画の多くが都市工学、土木工学、建築工学で、「都市計画」教育が行われていますが、それらは「都市施設計画」で、欧米の人文科学としての建築教育ではありません。その違いを知ってか、「都市計画は都市工学、土木工学、建築工学で扱う学問だ」という考え方が日本にありますが、世界には通用しません。
米国での都市再生の事業修正
米国では戦後の郊外開発が急速に進み都心のドーナツ化現象が発生し、重厚長大産業から軽薄短小のIT産業へ産業構造の急変により都市衰退の問題を発生しました。その取り組みとしてスラムクリアランス事業がプルーイット・アイゴー団地で建設されました。世紀の大事業と言われたこの事業は、目先の対症療法に走り、その再開発事業は失敗し、再開発事業を再びスクラップ・アンド・ビルドしなければならなくなりました。その苦い経験は米国の都市政策に反映され、住宅都市開発省(HUD)が取り組んでいるHOPEⅥ計画から、スクラップ・アンド・ビルドによる都市再開発政策は放棄されました。それに代わって、都市の歴史・文化・生活を尊重し、「量から質へ」という弁証的な方法を取り入れた「ニューアバニズム」の方法が、都市の質的改善が取り組まれ着実に成果を上げています。ワシントン州が取り組んだ「ハイポイント」計画(ウエスト・シアトル)は、かつての犯罪が多発し貧困者の居住するスラムを、汚染された河川に鮭が遡上できる水資源の改良問題と一体的に取り組まれました。その結果、計画通りの成果を上げ、そこで住宅を購入することで資産形成ができる住宅地に変質させています。都市再生の基本はスクラップ・アンド・ビルドではなく、時間軸を組み込んだ「計画的な改良が質的変革をもたらす」人文科学の「量から質へ」の変化に基づく住宅・建築・都市計画に依っています。
欧米の建築学教育、
欧米では、住宅・建築・都市計画の教育が人文科学部(ヒューマニティーズ・デパートメント)建築学(アーキテクチュラル・スクール)として行われてきました。人文科学としての建築学は、住宅・建築・都市はすべて人々の歴史・文化・生活を担う空間(環境)として捉え、土地が担ってきた歴史・文化・生活を前提に、そこで土地利用を享受しようとする人たちの担ってきた歴史・文化・生活をその経済的な負担能力で実現させ、その環境を未来に継続発展させる教育をしています。人文科学としての建築教育は人類の生活環境を歴史・文化・生活の視点で、人類の「過去・現在・未来」の歴史時間軸をとおして考える教育です。欧米では、都市計画は歴史・文化・生活を過去・現在・未来の時間軸で扱う建築学で教育され、欧米の建設工学(シビルエンジニアリング)は、日本の土木工学や都市工学や建築工学と基本的に同じもので、建築学に基づいて設計された住宅・建築・都市計画を、その計画通り、経済合理性を追求して施工する学問です。
わが国の建築工学教育
日本で行われている欧米に相当する教育は、工学部建築工学科で、欧米と同じ名称の住宅・建築・都市計画が行われていますが、建築教育内容は、欧米の人文科学としての建築学とは違った教育です。わが国の工学部における住宅・建築・都市計画学は、政治、経済、社会環境の変化に合わせて、住宅・建築・都市のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返して、目先の効用を発揮するよう、遅れた効用しか発揮できないものは使い捨て、それに代わって効用の高いものを作り上げる教育をしてきました。実は公共事業で牽引された財政指導の経済政策は、GDPを最大化する経済政策の基本に据えられてきました。そのため、わが国の物づくりの工学教育は経済政策と平仄を合わせ、目先の利益本位に権力者の意思や利潤の最大化を目指し、効率本位の変更を繰り返す工学教育になっています。日本では都市工学とか土木工学で都市施設づくりの都市計画教育がなされていますが、それは欧米の人文科学部建築学で教育する都市計画ではなく、モノづくりの建設工学(シビルエンジニアリング)の学問です。建設工学で都市計画を教育することはありません。日本の建築学教育は工学教育でスクラップ・アンド・ビルドには有効ですが、そこで住宅・建築・都市環境を享受する人びとの経済力を含む家族の歴史・文化・生活を考えて、住環境を計画するものではありません。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷英世)