HICPMメールマガジン第858号(2019.11.25)

みなさんこんにちは

 

第15回 広域行政と関連した都市計画法の制定

1960年日米安全保障条約は改正され、新しい東西対立の中で、わが国は石炭から石油への基幹エネルギーの転換に併せて、わが国の米軍の兵站基地としての役割が、重化学工業による兵站基地活動を担うことになり、それに対応する産業政策が全国総合開発計画と新全国総合開発計画としてまとめられ、新産業都市と工業整備特別地区の開発がその基本に置かれた。日米安全保障条約の改正に合わせ、米国の極東軍事戦略に併せた重化学工業による米軍の兵站基地機能を整備するために、全国総合開発計画(全総)を全面改定した新全国総合開発計画(新全総)により、国家の基幹エネルギーを石炭から石油に転換することで巨額なガソリン税を国税の財源にすることが出来た。その結果、全国の道路整備計画を実現する財源が新しく生み出された。

 

60年日米安全保障体制下の新全国総合開発

1960年日米安全保障条約の改正は、自由化政策と一体に所得倍増計画がわが国の経済成長政策として進められた。都市が無秩序に急成長を始め、この状況を放置することは都市の未来に混乱が生じると判断された。政府は英国に見られるような秩序ある都市をつくるために、英国の都市農村計画違法に倣って、1968年わが国の都市計画法が制定された。政府は「全総」とそれに続く「新全総」「3全総」という日米安全保障体制に応えた米軍の兵站基地に合わせ、政府の意図通りの財政配分を行なった。

政府は都市計画法と地域計画を扱う新全国総合開発計画とを関連付けて、田中角栄は自民党幹事長時代、下河辺淳経済企画庁計画官及び大塩洋一郎建設省都市計画課長をブレーンに「都市政策大綱」を発表した。その後、同じブレーンが『日本列島改造論』をまとめた。それが全国総合開発計画の骨子となり、わが国の地域計画及び都市計画を具体化する財政・経済政策になった。米軍の兵站基地としての機能を果たすための地域開発計画と都市計画が、「地方自治」を定めた日本国憲法に違反して進められた。産業活動を拡大する経済政策に対応して日本住宅公団の創設が行われた。新しい経済政策として産業連関表を使った経済の波及効果が検討され、道路による物流を円滑に行なわれた。

地域計画及び都市計画において経済活動を飛躍的に拡大する政策がとられ、その政策が地域計画及び都市計画の目的と考えられた。欧米の地域計画及び都市計画のように、その計画を地方分権を基本に、人文科学的な考え方で国民の生活環境を整備するものではなかった。道路計画が地域計画及び都市計画の基本と考えられ、公共事業として行われる道路計画が、わが国の基幹インフラ整備とされ、物流による経済効果を図ることと併せて、公共事業投資による経済的波及効果の観点でしか検討されていなかった。

 

「新全総」は、東西対立の地球上での戦闘の高度化により、米軍の兵站基地としてのわが国が果たすべき役割はますます広域化し、それまでの新産業都市と工業整備特別地域振興を重化学工業を基本にした大規模プロジェクト構想 が具体化された。わが国は戦場に軍隊を送らなかったが、東南アジアにおける戦争には、国産の軍需物資が投入された。わが国は軍需産業需要を受け右肩上がりの経済成長を続けた。東南アジアの戦場にはわが国で生産された重化学兵器が大量に投入され、その非人道的な重化学兵器使用に国際的な非難は拡大した。しかし、わが国はそれらの軍事兵器の供給国であるにもかかわらず、「戦争の放棄」を規定した日本国憲法を口実に白を切りとおし、戦争に参加している事実を否定し続けてきた。これまでの新産業都市と工業特別整備地区に加え、大規模工業開発の候補地、苫小牧、「むつ」・小川原、西南地域(山口・愛媛・福岡・大分・宮崎の各県に囲まれた瀬戸内沿岸地域及び志布志湾)が挙げられ、日米安全保障条約との関係を捨象して新全国総合開発計画を考えることは出来ない。

 

欧米の住宅地経営と日本の住宅地開発と欧米の住宅、都市計画教育

欧米の建築学教育では、住宅や都市を設計する場合、まず土地に定着した「基本コンセプト」を明らかにする取り組みから始める教育をしている。その「基本コンセプト」は、開発しようとする「土地」とそこで「生活する人」という2つを基本コンセプトの相互作用で生活環境を造る計画をしている。

土地は過去から未来に向けて時系列を追って変化するが、その地理学上の位置は変わらない。土地はその土地と連続する「時間の流れの縦軸」と「都市空間の広がりの横軸」と不可分な相互依存の関係と切り離すことが出来ない。そのため、土地利用はその土地と時・空間で連続する空間とそこで生活する人びとの生活と人々が構築する生活環境との関係で考えなければならない。

土地とそこで生活する人は、主体的に計画条件を決めることができるように考えがちであるが、土地も人もそれを取り巻く歴史文化に大きく影響され縛られている。利用する土地も、その土地を利用する人も、その土地とそこに立地する企業や事業所の就業機会や就労条件に関係する人々の生活に関係している。それらの就労条件は産業の歴史文化を反映した社会科学的、人文科学的条件や、その地域の生活環境や産業の雇用条件や社会的通勤交通条件と労動者の就労条件との相互関係と切り離して存在しない。

資本主義社会が誕生した当時は、産業が圧倒的に大きな力を持っていて、産業資本が雇用機会を創造し、その労働条件を決定していた。しかし、民主主義国家が成立し、国民の国家における集権が認められる国家が成立することによって、労働者と資本家の政治的力が均衡するようになると、労働者と資本家は社会的に合意が得られる社会秩序を形成し、国民主権の都市経営を行うことになる。

欧米の住宅や都市は居住者とともに成長するように計画され、建設され維持管理されているのに対して、近代以降のわが国の近代都市は産業本位の都市経営が行なわれ、産業とともに栄枯盛衰を繰り返し、そこに生活する消費者の生活本位ではない。欧米の優れた都市を物づくりとして模倣した施設計画をし、建設することが行われるようになっているが、そこに居住している消費者にとってその都市の住宅生活環境が住民が主体背を持って経営する地方自治として行うことは重視されてこなかった。

 

ガーデンシティの計画論「近隣住区論」の開発

「物づくり」として欧米に追いつくことを目的にした明治政府の取り組みは、条約改正を目的にしていて、そこに作られた都市や住宅とそこで生活する人との関係は必ずしも明確ではなかった。その点、エベネザー・ハワードの「レッチワース・ガーデンシテイ」に触発されて、ニューヨークのラッセル・セイジ財団の理事長夫人が取り組んだ「フォレスト・ヒルズ・ガーデンズ」は、住宅購入者に資産形成を可能にする住宅地経営を提起するとともに、それを学び追い付き、追い越すような米国の住宅地経営者考え方を明確に示すものであった。住宅地経営意図も住宅地で生活する人たちの目線で、住宅地経営の具体的取り組みも明確にするもので、ハワードの住宅地計画理論は、ラッセル・セイジ財団の環境問題の研究者C.A.ペリ―がその住宅地に生活して「近隣住区論」としてまとめたものであった。

大正時代に欧米の住宅地経営をわが国に取り入れた小林一三による田園都市開発は、郊外電鉄経営と住宅地開発を結んだもので、ハワードのガーデンシティの理想の都市経営を取り入れたものであった。小林一三の住宅地開発は、その経営的視点を明確にしながら、住宅地への居住者の視点を大切にしたものであった。つまり、田園都市に生活の拠点を定めた住宅購入者の生活を計画の対象にした「ストック重視の住宅地開発」という欧米の住宅地経営と同じ性格を持って開発されている。これらのわが国の戦前の住宅及び住宅地開発は、地縁的な関係を重視した住宅地開発が取り組まれた点で、居住者本位の人文科学的な計画理論で資産形成を重視して作られている。戦後の住宅、中でも高度成長経済の中でのスクラップ・アンド・ビルドの時代以降の開発業者の利益追求を目的とした「フローの住宅」とは違っている。「フローの住宅」の最も現代的な住宅が「手離れの良い住宅」といわれる「差別化」住宅である。

 

英国のガーデンシテイと米国のガーデンシテイ

ハワードのガーデンシテイは、エドワード・ベラミーの『顧みれば』に触発されて開発された人文科学的な思想に立った住宅地開発で、その開発の思想自体に人類文化史に立った居住者とともに成長する住宅地開発である。私はハワードのレッチワース・ガーデンシテイには、過去に何度も訪問しその計画については理解していたので、そのモデルになったレッチワース・ガーデンシテイとフォレストヒルズ・ガーデンズとを比較をすることを中心に考えて現地調査を行なった。ハワードのガーデンシティの考え方が、フォレスト・ヒルズ・ガーデンズにどのような形で影響を与えていたかを知るために、私は事前に文献でその歴史や計画内容を調べてから現地訪問を行った。その現地調査は1年間に3回、季節を変えて訪問調査を行うことが出来た。ハワードの考えた住宅地計画理論をどのように採り入れられているかを理解するため、真夏の暑い季節と、ニューヨークが雪で荒れた冬と、穏やかな春に3度、現地調査をしたが、いずれの季節も居住者を引き付ける住環境であることを確認した。

 

フォレスト・ヒルズ・ガーデンズは、J・C・ニコルズによるカンザスシテイにおけるカントリークラブと並んで、英国のエベネザー・ハワードの提唱した『ガーデンシテイ』の実践に刺激されて、当時「資産価値を増進できる住宅地開発」が取り組まれていたときの代表的事例である。英国のガーデンシテイをモデルにした米国での最初の取り組みというだけではない。新しく台頭した米国の産業人たちの住宅地を、住宅購入者の資産形成できるものとして、さらに発展させる意図を持って取り組まれた住宅地である。フォレスト・ヒルズ・ガーデンズは期待どおり100年先の成長を展望して計画されたと言われるとおり、購入者の不動産投資として、その資産価値は予想を超えて上昇し続けている。ニューヨークでも優れた住環境、教育環境を備えた憧れの住宅地になっている。

 

現代建設されているすぐれた住宅地

多くの書籍で、住宅地計画の重視すべきとされたことは、悉く実践されているモデル住宅地計画のテキストと言ってよい住宅地である。居住者は子供の成長に合わせて通学させる学校を住宅地は賑やかな盛り場(ショッピングセンター)やスポーツクラブや各種クラブハウスがあって、居住者が生活を楽しめる生活施設を住宅地内に持ち、子供たちは安全に通学できる。街には計画された人たちの生活要求に応えて施設が整備されるとともに、人びとの要求に応えて充実されることになる。

施設計画が充実していても、必ずしもすべての居住者の多種多様な要求を満足させていることにはならない。また施設計画が優れていても居住者が主体的に都市経営に参画していない住宅地では、その住宅地に対して多様な居住者の立場から、無条件で「良し、悪し」の判断は難しい。住んでいる人たちに満足できる「高い売り手市場」を維持している住宅地は生活利便性の高さとともに、多くの人たちが個性を尊重し合い、生活者の良い住環境を形成されることである。生活者の合意形成によってよい人間環境形成ができ、相互理解がなされ、楽しく生活できると居住者が理解し合える住宅地となり、売り手市場を形成し、将来的に資産形成が見込まれる。「売り手市場を維持できる住宅地」は、購入した住宅資産は上昇し、時代とともに熟成する住宅地が居住者満足の高い住宅地であると説明できる。

 

1980年代に米国の建築家ピーター・カルソープが提唱し、実践したサステイナブル・コミュニティは、住宅地の評価の中心を、第2次世界大戦後の産業本位の都市計画からから、エベネザー・ハワードが「ガーデンシティ」で提唱した居住者生活本位に立ち返ることにしたもので、消費者が「住宅地に持続的(サステイナブル)に住み続けたいと望む住宅地」に開発の軸足を置くべきことを提唱した。産業活動本位ではなく、生活者が主体的にその住宅地に住み続けたいと考える住宅である。それは居住者がその住環境の主人公で、住宅地経営に参加する仕組みに作られていることである。

私たちが購入者に対し「売り手市場を維持する住宅地」は、フォレスト・ヒルズ・ガーデンズのような高級住宅地だけではなく、中・低所得の人や貧困な所得の人達にもあるはずである。ニューアーバニズムは、現代の多様な社会において、多様な居住者の要求に向けて開発される住宅地開発で、住宅関係者が努力を結集させるべき住宅地形成の思想である。ワシントン州ウエストシアトルにあるハイポイントは、汚染した河川に「鮭を俎上させる」水環境問題と、人びとの生活環境問題とを併せてニューアーバニズムによる住宅地再開発をHOPE計画で進め、持続的に成功し続ける代表的な成功例である。

 

物づくり本意の住宅地の挫折

私は官僚時代にスラムクリアランス事業を担当し、米国が当時誇っていたスラムクリアランス法に倣い、住宅地改良法が制定された。モデルにされたスラムクリアランスであるミズーリ州セントルイス、プルーイット・アイゴウ団地の歴史的な総括(再開発された住宅地がダイナマイトを使って破壊)の事実を10年後に知らされた。それは米国における関係者のだれも予想出来なかったことであった。しかし、米国のスラムクリアランス事業の失敗を知ってから、その理由を振り返って考えると、わが国の住宅地区改良事業の基本的欠陥が立法自体に内包されていることを理解することが出来た。その基本的欠陥とは、住宅も住宅地も物理的な形に幻惑される危険性が有り、物として美しいものを作れば、その美しさで生活環境も改善されると思いがちである。「ものづくりで環境改善ができる」考え方に偏って考えることが多い。しかも計画段階で、又は、建設後短期にその計画の欠陥が露見することはそんなに多くなく、外観によって事業の失敗が隠蔽されることも多い。外観が住宅地経営に影響することは在っても、外観が住宅地経営を変化させることはない。居住者に生活改善の意欲を吹き込まなければならない。

わが国では明治の初めから、建築学は工部大学校(その後の東京大学)工学部の建築教育として、事実上は「建築意匠教育と言って、欧米の建築物の「意匠の模倣」を行なう教育が建築教育として行なわれてきた。建築学と呼んだり、その教育の目的は不平等条約の改正に向けた『欧米に立っている建築物の形態模写を、「建築意匠教育」として行われてきた。その後関東大震災以降、「建築安全か、意匠か」論争の結果、建築工学と呼ばれるようになってきたが、その教育内容はシビルエンジニアリング(工学)でもなければ、建築意匠教育でもない。人とモノを相互作用させる人文科学的事業が求められている。

(NPO法人住宅生産性研究会理事長戸谷英世)

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