HICPMメールマガジン第856号(2019.11.18)
第14回 明治維新の都市計画
明治政府は近代日本の都市計画を作るべく、欧米先進国から近代国家の首都東京の都市計画を如何に作るかを聴き、欧米では、「都市計画技術は専門の知識を有する建築家」が都市を設計すると聞いていた。明治政府は不平等条約改正ため欧米がルネサンス建築が盛んであったので、欧米と対等の都市空間を作れることを誇示するルネサンス建築設計家を養成すべく、英国からジョサイア・コンドルを招聘し工部大学校で建築学教育を始めていた。そこで、欧米では都市計画を建築家が設計することをコンドルに確認し、首都の中心部の都市計画である中央官公庁計画を依頼した。コンドルの作成した都市計画は、欧米の都市計画教育どおり、東京の歴史文化を調査し、それを踏まえ実現性の高い東京の中心部の都市計画を設計した。その成果は、現在、法務省の資料館に保存され見ることが出来る。この都市計画は非常に地味な計画で、明治維新政府の政治家の希望に応える計画ではなく採択されなかった。
岩倉具視を団長とした遣欧米調査団の調査結果、わが国がモデルとするべき欧米諸国の中で、最右翼に挙げられた国は、普墺戦争及び普仏戦争で勝利したプロシャと結論付けられていた。そこでプロシャの鉄拳宰相ビスマルㇰの建築顧問、ウイルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデを招聘し、東京中央官公庁街の都市計画を依頼した。ベックマンとエンデによる都市計画は、「みかど大通り」、「皇后大通り」と主要幹線計画に名付け交差させ、そこに官公庁を配置する都市計画で、天皇制を主張する国威発揚の都市計画であった。ベックマンの計画は明治維新政府の高い評価を受け採択され、実施が決定された。
しかし、ベックマンが取りまとめた計画は、都市のデザインで都市の実施計画ではなかった。
都市計画(人文科学:ヒューマニティーズ)と都市建設(建設工学:「シビルエンジニアリング)
この都市デザインを基に、都市計画に具体化する実施設計をするためには、基本設計及び実施設計を作成する都市計画技術者を養成する必要があった。そのための都市計画を事業に組み立てるための人材養成する必要があった。その人材養成のため、工部大学校にシビルエンジニアリング(建設工学)学科を設立することを決め、その学科名称は中国語の「築土構木」から、「土木」の名称が決定された。その後、東京都知事芳川方正が記述しているとおり、都市計画は「道路・河川が元で、建築は末」とされ、土木技術者が中心となって土工事と建設工事により造る「物づくり」を行なう道路工学となっている。都市施設計画を設計し建設する技術は、欧米ではシビルエンジニアリング(工学)であるが、それは人文科学による都市計画の設計技術ではない。古代ローマ時代から道路や港湾を整備する技術は、軍事工学(アームエンジニアリング)と言った。軍事工学技術はやがて、平和時の都市計画の都市施設の築造技術となり、シビルエンジニアリング(民生工学)と呼ばれるようになった。
都市が現在から未来に向かって人びとが成長させる計画技術は、「土地」と「そこで生活する人びと」との人文科学的な相互作用で決められるものである。そのため、都市計画は土地とそこに生活する人々の人文科学的関係を反映して決められる計画である。都市計画により実際に都市を建設するためには、実施設計を作成し、建設詳細と建設材料と施工詳細を決定し、施工者の業務(工事)を決定し、工事費を確定する工事費見積もりが必要となる。建設工事費は材料と労務詳細によって決定される。
明治維新からわが国の都市計画は工学部土木工学科で扱う道路の計画と施工を中心にする工事費見積もりで決定されてきた。わが国では欧米の都市計画学が建築学教育であったのに倣って、都市計画教育は建築学科で教育された。欧米では都市の歴史文化を形成する人文科学として都市計画が教育され、それを実現する技術として建設工学(シビルエンジニアリング)が、都市および都市施設計画と施工技術が教育された。わが国の建築・都市教育には欧米のような建築・都市計画教育の共通理解はできておらず、欧米の住宅・建築・都市教育は、基本的にわが国の学校教育には受け入れていない。
東京大学の土木工学や都市工学では、初めから都市計画をモノ造り(建設)と考え、工学教育の中に都市計画があると考えてきた。都市のデザインや都市の機能を都市の形態計画としての道路計画を中心にした都市施設として学んでいるが、欧米の都市計画のように都市の歴史文化を扱う人文科学として都市計画を学ぶことはない。また、都市施設計画を基にその工事に必要とする材料と労務を積み上げて工事費を見積もることが正確に行われていない。そこには公共事業は上意下達の重層下請けで行なう直轄事業で、予算が不足すればそこで工事はやめる裁量ができる産官癒着事業とされてきた。
わが国の都市計画法
わが国の都市計画法は、1918年市街地建築物法と姉妹法の関係の法律として制定された。わが国では土地と建築物とは独立した不動産とする民法があり、その内で土地不動産を扱い、土地利用計画と都市施設を扱う計画を都市計画法が扱い、建築物は市街地建築物法で扱った。わが国には都市環境の形成と言う概念はなく、土地不動産と建築不動産と言う2つの概念が並立していたが、欧米の法体系に揃えるために、1968年に新都市計画法が立法されたが、挫折し、成立した現行の都市計画法は、旧態前のものよりさらに後退した。優れた都市をつくるためには、しっかりした都市計画法が必要であると考えられ、そのモデルとして英国の都市農村計画法に倣った都市計画法を制定した。
英国に倣った都市計画法とその施行技術を学び立案されたが、英国の都市計画の理論も都市計画法の技術も伝承されず、単に英国の都市計画法の構成と手続きをわが国の都市計画制度を模倣どころか、理解ができず、現行法との妥協でお茶を濁すことになった。都市計画自体が人文科学的に策定されなければならないことが受け継がれず、土地とそこで生活する人々の相互作用で、土地と建築物とが一体となって都市居住者の生活環境を形成される。この日本以外の国の都市環境に関する常識すら、わが国の民法との関係で受け入れられず、都市計画法は挫折した。その挫折した現行都市計画法は、その基本に据えられた「開発行為」の定義が、都市計画法に違反し、都市に重大な混乱を与えている。
民法に違反した都市計画法案
立法当時、わが国は朝鮮戦争を背景にした軍需産業の復興が米国の極東戦略の下で進められ、石油産業を中心にした重化学工業を中心にした新産業都市と工業整備特別地区の高度経済成長が始まり、田中角栄の主張する「日本列島改造論」を基本とする全国総合開発計画(全総)及び「新全総」が推進された。それは米国の極東軍事戦略に従って展開された日米安全保障条約に基づく、地域開発としての軍需産業復興政策とも言い換えることが出来る。軍需産業の復興はわが国経済の高度成長をもたらしたが、都市の無秩序な開発を引き起こし、それを制御しないと将来の都市に大きな禍根を残すと考えられた。当時先進工業国の中で最も優れた都市計画を誇っていた英国の都市農村計画法をわが国に取り入れれば、「新全総」による地域開発と英国の都市農村計画法をそのまま取り入れた新しい都市計画法によって、優れた都市を造れると考えられた。そのため建設省を中心に、政府は日米安全保障条約に適合した地域計画や都市計画関係者たちは共通して、「新全総」は、新規に都市計画法を立法することにより、将来に向けて禍根を残さないような都市をつくることが出来ると考えていた。
英国の都市農村計画法の「計画許可」は、土地と建築物とを一体に都市環境計画の計画許可をしているので、わが国で新しく制定する都市計画法でも、英国の「計画許可」を「開発許可」と名称を変更してた都市計画法案の開発許可制度が、英国の都市農村計画法の計画許可と同様な効力を発揮すると説明され、国会上程を迎えていた。その段階で都市計画法が制定されると、建築基準法による確認事務が都市計画法の「開発許可」に吸収されることが判明した。そこで建築基準法行政当局・住宅局から都市計画法反対の狼煙が上がった。そこで判明したことは、新都市計画法案の開発許可制度は民法第87条に定める「土地と建築物の不動産の性格」と矛盾し、民法との調整なしで立法不可能な内容であった。
国会上程を目前に控えて法務省との間で民法第87条との矛盾を解決し、閣議決定をすることは、時間的に不可能であった。そのような初歩的な誤りを犯して都市計画法の立法を行なってきた建設省は、その恥を外部に曝すことを恥じて、民法第87条に矛盾する問題を孕んでいたことを表面化させることを避けて都市計画法を立法することになった。それは民法の範囲内で、それまでの都市計画法行政と建築行政の既得行政権を踏襲し、新規の都市計画法で「開発許可制度」の新設することで新規立法の大義名分も失わずに、建設省当局は新都市計画法の立法を保つことで幕引きを考えた。
「開発許可」のできない都市計画法の立法
新都市計画法は、将来に向けて優れた都市環境を創設できるようにと、立法作業の最初の段階で、「開発許可の基準」(第33条)を法律条項として設定した。その基準は立案当時の都市計画法区域の都市施設整備水準として定められ、現在も踏襲している「幅員4m以上の道路」を「幅員6mの開発道路」に変更することが決定された。しかし、その開発許可の基準は、将来に禍根を残さぬ都市をつくるために必要とされ、都市計画法の制定施行前に開発許可の基準に見合った道路の先行整備を行なうための議論は始められていた。しかし、建築基準法行政から、「確認事務を吸収する新都市計画法反対」の狼煙が上がった。建設省文書課で議論を詰めていくと、民法87条と矛盾する条文上の調整がなされていない都市計画法案であることが判明した。都市計画法が国会に上程されるためには閣議合意は不可欠の条件で、民法と矛盾した都市計画法案は、法務省の反対では上程できず、建設省は法務省の前で赤恥をかくところであることが明確になった。都市計画法を廃案にしないためには、民法に規定通りの都市計画法と建築基準法行政に戻る以外の道は残されていなかった。建設省は新規立法では国会上程ができないことを認識した。その結果まとめられた法律が現行都市計画法である。この法律では第33条の「開発許可の基準」の規定が設けられたが、その基準に対応する道路の先行整備は行われなかったため、この『開発許可の基準』では開発許可を行なえない状況の法律になってしまった。
新都市計画法の立法の位置づけ
わが国の戦後は、朝鮮戦争をきっかけにわが国全体が米軍の兵站基地に位置づけられ、日本国憲法で新たに「国是」とされた「戦争の放棄」の規定に違反して戦前の軍需産業の復興によって、戦後経済復興が急速に進んだ。新しい石油を中心にする重化学武器・弾薬の生産に合わせて開発生産された産業が、新産業都市の開発と工業整備特別地区の開発を進め、わが国経済を急成長させた。朝鮮戦争において朝鮮半島から追い落とされる危機に直面した米軍は、約100名に上る朝鮮事情に明るい日本人が戦争に駆り立てた。北朝鮮軍の戦線が朝鮮半島南北全体に伸びきったとき、米軍は朝鮮半島の中央にある仁川奇襲攻撃を行ない起死回生の勝利を得、朝鮮戦争を継続でき戦線を盛り返すことが出来た。最終的に警察予備隊の朝鮮出兵は行われず、わが国は軍需物資の生産で大きな利益を挙げたが、戦場に日本人が出兵することはなく、1952年朝鮮休戦協定の締結で戦争の直接の影響は国内では見えなくなった。
1960年、米国の新しい軍事戦略に併せ日米安全保障条約が改正された。米軍は朝鮮戦争に代わってインドシナ半島での戦線拡大に合わせた新戦略を展開した。米国の極東戦略として、米軍の兵站基地、日本が米軍に新しい戦争環境に合わせた軍事物資の供給を円滑に行うことが、日本軍の米軍への参戦以上に重要とされた。兵器や戦略自体が高度化し、石油化学による軍需産業の復興で、新産業都市および工業整備特別地区としての機能充実が米軍の共闘戦略上重視された。新しい軍需産業向け労働者の都市集中は激化した。わが国では軍需産業復興は人口の産業都市への集中と言う新産業都市と工業整備特別地区の都市問題として受け取られた。わが国は「新全総」によって国を挙げて米国の極東戦略に応える兵站基地を整備する政策を採った。「新全総」を進めるためには、日本国憲法に定めた地方自治ではなく、広域的産業計画をサポートする法の整備が必要とされた。「新全総」と都市計画違法は日米安全保障条約に基づく国土計画の骨格としてつくられたが、その具体的な機能は必ずしも明確ではない。
新都市計画法の立法作業の政治的位置づけ
日米安全保障条約締結後、政府は「新全総」を制定し、日本全体が米軍の兵站基地として機能するよう地域整備を行ない、地域計画と一体化した都市計画を行うことを決定した。その後の建設省の行なった都市計画行政を振り返って見ても、国家として地域計画と一体的に都市計画制度を改定することが必要とされ、地域計画や都市計画の計画内容が米軍の兵站基地上問題にされていた。日米安全保障条約改正に合わせて、国家全体としての米軍の兵站基地を造る政治的決断の意思表示が求められていた。
建設省は都市局で都市計画法の制定作業に関係する職員のほぼ全員を英国に派遣し、そこで英国の都市農村計画法の実際を研修させるとともに、多数の英国の都市計画専門家・研究者、行政官、都市問題研究者を招聘した。英国の都市計画法の理論と実際を学び、そのときの立法作業関係者は、英国の都市農村計画法の中の規定を借用したが、法律の目的も実体も英国の都市農村計画法とは違っていた。
英国の都市農村計画法は土地を環境計画に基づいて建築加工し、それを育てる環境形成(人文科学)事業であったが、わが国では土地と建築物とは別の不動産として計画され、政治・経済的活動のための「物づくり」で、スクラップ・アンド・ビルドの都市再生を繰り返し機能的な都市づくりが目的にされた。
政府が中心になって都市計画法を立法することは出来るが、それは英国の都市計画法の趣旨目的にかなった都市計画を実施できる訳ではない。欧米の住宅・建築・都市を模倣すれば、欧米諸国は日本を対等の文明国家とみてくれると考え失敗した。また、わが国政府が経済の急成長期に、英国の都市農村計画法に倣った都市計画法を制定し、英国の倣った都市計画行政を行なえば、英国に倣った都市をつくることが出来ると国民に説明したが、その半世紀が経過し都市計画違法を立法し施行した結果を見ると、そのときつくられた都市計画法はわが国の都市計画を無秩序な違反だらけの都市にしてしまったように、立法時の政府の説明とは全く違った結果になった。都市は政府が国民に説明した都市を造ることに失敗し、国民自身の技術と能力で国民合意によって造らなければできないことを知らされた。
(NPO法人 住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)