HICPMメールマガジン第839号(2019.07.17)

みなさんこんにちは

当初のローマツアーでは10日間あっても希望したローマを存分に見ることはできないと感じ、ローマに来てからも迷い、希望する見学場所に変更を繰り返した。最初計画したオルヴィエート:ローマ教皇も隠れた静寂の中世都市は、日本を出発するときに時間が不足するため、見学地から削除した。しかし、ローマで見切れない観光を視点を変えて見るために、オリヴィエートを急遽見学地に復活した。もう一つの計画変更の一つはルネサンス建築家ブラマンテの名作テンビエントを最も古代ローマとの関係の深いトランスヴェレと言うティヴェリ川の右岸(河川の西側)の地丘陵地に立つサンタ・ピエトロ・モンテ―リオ教会にある小寺院建築物テンヴィエント(聖堂)を見学することにした。ブラマンテは、現在のセントペテロ大聖堂は、ラファエロやミケランジョロも設計に関係しているが、その最初のサンピエトロ寺院の設計者である。フィレンッェ・ルネサンスに関係し、それをローマに持ち込んだ建築家である。
ローマ教皇の中世の隠れ都市、オルヴィエートは、教皇の隠れた中世都市の教皇に秘密がわかるかもしれない教会都市の見学である。旅行者向けの薄いパンフレットに僅かな情報しかないところであったが、ローマであってローマの中心とも思えぬ「教皇の隠れ都市」に大きな興味を感じた。ローマのテルミニ駅に近くで共和国広場に面するビルにTBSローマ支店があり、日本人店員が親切に対応してくれたおかげで、定期ツアーはなかったが個人的なツアーを組んでくれた。
ローマから北へ、森林の中を走るくねくねした道を2時間以上走ったところに小高い丘があってそこにオリヴィエ―が配置し、オリヴィエ―との中心に大聖堂が立っていて、その大聖堂を囲んで石畳で造られた広場がある。その広場を囲む形で小さな街並みができていて、大聖堂関係のミュージアムや店が街並みを形成し、観光客が集まる街で観光資源は大聖堂とその鄙びた町の風景であった。

第7日 5月14日(火曜日):ディオクレチアヌスの大浴場、共和国広場、
トランスヴェレ;サンタ・ピエトロ・モントーリオ、テンビエント(聖堂)、
午前中テルミニ駅からその近辺にある建築物と都市施設を見学した。テルミニ駅前にある「500人広場」の前には「ディオクレチアヌスの大浴場跡」がある。大浴場前の痕跡を留める広場は、「共和国広場」である。広場の形が湾曲しているのは、「ディオクレチアヌスの浴場」のエクセドラ(半円形平面の空間)がこの広場に張り出しているためである。広場の中心にある「ナイアディの泉」で1901年に公開されたときにはニンフの裸体像が問題にされたことがあった。
テルミニ駅の北正面に「ディオクレティアヌス帝の大浴場跡」がある。その正面は博物館になっていて噴水のある門を通って博物館に入ることが出来る、そこには陳列室が緑の公園を囲んで整備され、都心を感じさせない緑の空間がある。この場所は、「カラカッラ浴場」と比較してもさらに大きな規模であると言われ、当時3000人収容と伝えられている。現在はローマ国立博物館と南西側の部分はサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂になっている。
共和国広場から北東に進む道には「モーゼの噴水」と、「サンタ・マリア・デッラヴィットリア聖堂」とがある。「モーゼの噴水」はモーゼがエジプトからカナンの地に帰って土地を叩いて水を噴出させた故事による彫刻である。モーゼの力強い姿が彫り上げられている。そこを東に向かうと「9月20日」
通りとシスティーナ通りの交差点の4つ角に4種類の「4つに噴水彫刻」がある。

「古代ローマ時代」を思い出させる土地に立つブラマンテの「テンヴエント」
午後の見学はローマの中で最も古い時代に開発された「トラステヴェレ地に出掛けることにした。その中心は「サンタ・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂」のブラマンテによる「テンビエント」である。丘の上に位置し数百段の石段を上った丘の頂上にある聖堂である。聖堂の入り口が分からず困っていたところ、聖堂の右手に入口があることを教えられた。その中に「テンビエント(聖堂)」があった。ローマにおける記念碑的な建築はサンピエトロ大聖堂を含み、ドトナ・ブラマンテ(1444-1514)は画家としてその活動を開始し、ミラノでの聖堂に関係した後、ローマにやってきた。ブラマンテは、フィレンツエ・ルネサンス技術をローマに持ち込んだ建築家である。この「テンビエット」では、ルネサンス建築図形の基本となる「一中心型の宇宙観」に基づく「円」など幾何学的対称図形の形態と単純化された建築要素を単純な比例関係で作り上げている。16世紀ごろから本格化したローマ・ルネサンスはフィレンツエ・ルネサンスや、ヴェネチア・ルネサンスをさらに発展させたものである。ブラマンテは、古代ローマ建築に近い形態を模索し、古代ローマ帝国時代の建築家のヴィトルビュウスの建築から、ルネサンス運動としての建築をテンビエットとして建築したものである。

パラディオに先立ち古代ローマに回帰する建築様式に取り組んだブラマンテ
ブラマンテはその独自の研究に基づいて、古代ローマの合理的な建築様式を研究し、対称形の「一心型の放射計を持つ円形平面と左右対称形のエレベーションの建築を提唱した。ルネサンス建築は、古代ローマに立ち返ってルネサンス思想を復興したもので、その建築はアンドレア・パラディオによりヴィチェンツアの街づくりに示されているとおり、紀元前のヴィドルビュウスの「建築10書」の原点を求めるものである。その都市計画
の構想はトリチィアーノに指導されたパラディオのヴィチェンツァの都市計画の業績,都市の中心に立つパラッオ・デッラ・ラジオーネ(バジリカ)、パラッォ・キエリカーティ(市立博物館)、ヴッラ・アルメリコ・ヴァルマラーナ(ラ・ロタンダ)、そのハイライトというべきオリンピア劇場などヴィチェンツを埋め尽くす建築物群として見ることが出来る。そのとき建築された実例は、ヴィトリヴィウスの「建築十書」や古代建築物自体の調査が,トリチアーノの指導と、パラディオ自身の古代ローマの都市及び建築物調査に基づいて行なわれた。

ルネサンス当時、絵画、彫刻、などは14世紀ごろから軌道に乗っていたが、決してローマにおいてルネサンス建築が建築されていたわけではない。建築分野でレネサンス建築が取り組まれるのは、パラディオの活躍以後、古代ローマの建築の原型がヴィトルヴュースであることが社会的共通認識となって以降である。パラディオの建築はヴィトルヴィースの建築を正確に分かりタスク説明するモデルと評価された。フィレンツエ、ベネチア、ヴィチェンツア、などのルネサンスと、パラディオによる古代ローマの建築復興が、ルネッサンス建築を西欧世界に普及させた。その影響が、「建築四書」パラディアン様式としてとしてまとめられ、西欧各国にヴィトルビュウスの取りまとめた古代ローマ建築様式のモデルとして展開されていった。

第8日目、5月15日(水曜日)オルヴィエート:ローマ教皇も隠れた静寂の中世都市:ローマ市内バス観光
教皇クレメンス7世が16世紀、ローマ略奪時にこのオルヴィエートに隠れた。オルヴィエートはラテン語で「古い町」BC3世紀古代ローマと戦って敗れたエトルリア人の城塞都市で、町は全長2キロメート区で小さい。町の中心には石畳が敷かれ、そこに威厳のあるゴシック建築の大聖堂がある。ローマからの半日ツアーのタクシー代2人で350EU(ユーロ、チップ30EU)である。
オルヴィエートの町は丘陵になっていてその丘陵の中心に中世に作られた驚くほど高い塔を持ったゴシック建築の大聖堂がある。この大聖堂の内部に入り聖堂を見学した。沢山の見学客や子供たちの見学者がいた。都市はこの大聖堂を囲む形で街が出来ているが、小さな土産物店が壁を接して並んでいる程度で町並みを楽しむような観光地ではない。
昼食はタクシードライバーが案内してくれた「ローマ教皇も隠れた静寂の中世都市」の雰囲気を感じさせるレストランであった。それは、その雰囲気がこの地に引かれた雰囲気を持っていた。中世の大聖堂(ドウモ)の近くの「地下洞窟レストラン」である。私たちはメニューからどこででも食べられるパスタ、サラダ、ワインとカプチーノを注文したが、味も雰囲気もよくオルヴィエートに期待していた「中世の隠れ家」の雰囲気を感じ満足した。オリヴィエートに到着する少し前、ドライバーが「怖い街をお見せしよう」と言って、途中に丘の上に古い街の話をしてくれた。その丘全体が50年以内に崩壊するという現在無人になっている集落の「恐ろしい景観」を見ることが出来た。

「ホップオン・アンド・オフ」の観光バスによる市街地見学
ローマに帰ってきてから、まだ夕暮れまで時間があったので、ローマの市街地観光バスでローマ全体をお浚いの見学をすることにした。屋上には「屋根なし」の展望バスでローマ市内一巡(一人E37,2人E74)で、下車しないでローマ観光の仕上げとした。イタリア語の案内しかなく、どこを橋っているか自体正確には分からなかったが、今回のツアー前にガイドブックでの調査と実際のローマ市街地を歩くことで何となくローマを見て回ったところの「お浚いの観光」をすることが出来た。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長戸谷英世)

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