HICPMメールマガジン第837号(2019.07.10)
みなさんこんにちは
「心ここにあらざれば見えども見えず、聴けども聞こえず」
古代ローマの政治・行政の中心部:フォロロマーノとカンピドリーノ場
今回のローマツアーは、ローマに出かけて見たいと思うものを見、知りたいと思うものをしっかり手に入れようと思って準備して出かけたローマツアーでした。ツアーに先立ち旅行案内書だけでも10冊近く読み、土地感覚を身に着ける努力をしました。旅行案内書には多くの旅行者の関心にこたえて説明はしてあります。旅行者が見たいと思うもの、生活者が見たいと思うもの、研究者が見たいと思う物などいろいろな欲望に応える視点があると思い、いろいろの文献を漁りました。アンデルセンの「即興詩人」(森鴎外訳)は生活者としてローマを楽しむうえで参考になると思って選んだ本ですし、ゲーテの「イタリア紀行」は、グランドツアーに参加した文化人がローマに長期逗留して経験したものは何かという視点で読んだ本です。今日訪問したところは「夏草や、兵どもは夢の内」(芭蕉)の俳句の世界のような「今は昔」の古代おーまの廃墟でしかないものですが、そこには古代ローマがもっとも繁栄を極めていたところ(ローマの中心)を眺望でき、繁栄していた時代の大理石の彫刻がたくさん展示されている美術館で、今回のツアーでの「ヴァチカン技術館』と「カンピトリーノ美術館」がその風景を含んで双璧を成す美術館ではないかと思ったところです。
第6日目:カンピドリオ広場と2つの美術館
5月13日(月曜日)コロッセオ、カンピトリーノ広場とカピントリーノ美術館
昨日は霙(ひょう)に遭って、行動を妨害され満足な見学もできなかった。今日は天気も昨日と変わって青空で、見学に出掛ける気分になり、フォロ・ロマーノは昨日の霙で、よく見られなかったところに出掛けることにした。地下鉄B線テルミニ駅からコロッセオ駅に行き、そこからフォロ・ロマーノとパラチーノの丘を見る予定で出発した。地下鉄B線コロセオ駅に到着したので、まず、昨日見なかったコロッセオを見学することにした。昨日購入したコロッセオ入場券は昨日5時半までで無効とされ、入場のためには、新規にチケットを購入せざるを得ませんでした。
この日は天気も良く、沢山の見学客があり、見学者はコロセオの前に長蛇の列を作り混雑していた。そこでコロセオ見学の安全を考えました。上階への階段上りが大変であったので、高齢者向けのエベーター利用をすることにした。最上階はコロセオを観覧席に沿って一周の回廊があり、コロセオ全体を角度を変えて見渡せるので、全体の眺望を見学しました。1階と3階をそれぞれ1周ずつしました。多分ここを訪問したのは今回で3回目ですが、コロセオの中央の競技場を見下ろして歩いているうちに、だんだん昔の見学時に受けた説明を思い出し、記憶が思い出されました。
当時は説明者が古代ローマ時代のコロセオでの催し物の説明で、野獣と人間との残虐な殺戮を市民たちが楽しんでいたという信じられない見世物であった話も思い出した。その記憶の説明を信じられない話と感じたことを思い出しながらコロシアムを見学をした。当時と比べコロセオの説明展示などは充実していたが、説明はイタリア語だけで、英語やフランス語も見当たりませんでした「イタリアから学ぼうとするならば、イタリア語は覚えて来い」と言われているようで、現代の「米国人の外国人に対する米国での対応」に似ているように思われました。「世界の中心」と自負するフランス人の行動にも「同じようなところがある」とよく指摘されています。
コロッセオは実物以外にも、その知識・情報はこれまでに書籍や映像でもよく知らされており、多分多くの見学者にも予備知識はあると思われましたが、その規模の大きさとその立派な造りには、私だけではなく見学者は、実物を見てあらためて驚かされたようでした。コロセオの観覧席に囲われた闘技場では、獣と人間との闘いが、ときにはキリスト教弾圧の目的で、気リスt京都の殺戮が行なわれたわけですが、専ら残虐さを楽しむためにショウが行われ、それが市民の娯楽としての支持を得ていた説明は、現地に来てコロセオを歩いていてもその実感は想像できなかった。闘技場のステージの下は、闘いに使われる動物たちを闘争させるまでのあいだの一時収容施設でした。
その闘技場空間は、屋根のない青天井ですが、それは動物たちを一時収容する施設の天井が拳闘が行われるステージの床面になっていた。その拳闘技が行われるステージの床材の石材が、個人の建築のために盗まれ、石材の供給地になってきたということでした。床材は木材と使っていた言う説明もありましたが、現在、床材は全面的に取り払われてなくなっており、確かめられませんでした。長年の石材の盗難で、又は木材で造られたステージの床には、穴が全面的に広がって、そこは闘いができる拳闘場のステージとは想像できない状態になっていました。床に穴が開き、その状態が床全体に広がっていました。現在は外壁の修復など構造体の復元修理と安全性の確保の作業が行なわれていた。見学者の数は驚くほど多く、その規模、構造はそれに対応するものと思われた。
現代でも尊敬されているコンスタンチヌス帝
コロセオを見学してから、コロセオの北側に立っている「コンスタンチヌス帝の凱旋門」を見学した。コンスタンチヌス帝はキリスト教を古代ローマ帝国の国教にした国王で、現在のローマカトリック教のローマ帝国における宗教基盤形成の原点となった人である。カイザー、アウグスチヌスと並んで現代のローマにとってコンスタンチヌス帝は最も重要な人の一人で、イタリア人の尊敬の中心に居座っている。古代ローマは精神的には、パンテオンに見られるようにローマ神話に登場する神々を祀ってきた国である。多神教のように見えながら、ギリシャ神話やローマ神話をよく調べて見ると、その思想はヘレニズム思想、つまり宇宙を統治し支配する自然科学を支持する自然科学神の世界である。全ての人類にとって、「生への畏敬」は自然科学への信頼になっている。ヘレニズムとは、まさに自然科学の合理主義信仰である。人格神の登場は、ヘブライズム、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教によってである。
そのヘレニズムの思想に対し、人格神(エホバ、アーラ)を基本に置くヘブライズムの宗教、それがユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。そこに「罪」の意識が宗教上登場した。古代ローマはヘレニズム思想の国からヘブライズムの思想を弁証法的に取り入れた国家である。ディオクレチアヌス帝がネロ皇帝を上回る残虐さで、キリスト教弾圧に残酷な危害を加えた。当然その弾圧に対応するユダヤ教徒やキリスト教徒たちの抵抗もあったに違いない。彼らの武力は弱くても、信仰心に支えられた地下活動を行ない、ローマ支配者の神を受け入れず、根強い組織的な抵抗であったと歴史は説明している。それを支えたものは、被圧迫民の神との約束の信仰(ミレニアムの思想)に支えられた人類の未来への「神との約束」に支えられた希望であった。
コンスタンチヌス帝によるキリスト教の国教化
AD313年コンスタンチヌス帝がAD312年、ローマの北にあるティヴェレ川に架かるミルウイウツス橋マクセンティウスの戦争に勝利し、コンスタンチヌス帝がキリスト教の国教化を実現した。キリスト教の国教化は、平和裏に移行したものではなく、多くに人たちの血が流された結果のまさに『革命』だった。歴史書では、コンスタンチヌㇲ帝の母親がキリスト教徒になっていて、母の勧めでキリスト教は国境になったと説明されている。それはいかにも皇帝の慈悲の思想によりキリスト教が国境に移行したような物語になっているが、宗教闘争・権力闘争の結果、多くに人びとが残酷に殺戮され、その結果キリスト教国になったと考えるべきである。しかし、権力者は、国家の統治のため、慈悲の精神で被圧迫移民を支配していることにしなければ、安定した統治はできない。
武力国家としての古代ローマ帝国は、キリスト教徒の国家権力奪還クーデターにより、キリスト教を国教にした国家を創設した。その闘争は単純な勝ち負けではなく、宗教による「人心掌握」という人々の精神。思想を転換することにより、ヘレニズムとヘブライズムを一つに統一(止揚)したものであった。古代ローマ帝国の守護神たちのための聖堂がキリスト教の聖堂になったパンテオン(万神殿)こそ、ヘレニズム文化とキリスト教の合体した現代に生きる西欧文明の基本なのである。キリスト教国が9世紀イスラム教の台頭から、イスラム教国の脅威を受け、十字軍遠征を始め、キリスト教とイスラムとの戦いでは、キリスト教は連戦連敗し、地中海を安全に航行することもできなくなった。そのとき、イスラム教国から聞き出した重要なことは、古代ローマが地中海世界を支配していた時代の帝国を支配していたときの『国家思想の中心がヘレニズム文化であったこと』である。古代ローマ帝国はヘレニズムの思想がイスラム国家の強国に育った思想であったことを神聖ローマ帝国の人々は確認し、古代ローマに回帰する運動を、ルネサンス(古代ローマに戻る)運動として取り組まれることになった。そのルネサンスの思想がその後の西欧の産業革命を発展させた基本思想になった。
オリエンテーション(ルックイースト)からルネサンス(古代ローマへの回帰)へ
古代ローマ帝国にはキリスト教が大きな力を持ってローマ帝国を経営することになったが、旧勢力も多く、簡単にキリスト教を国教にすることによって強国が造られたわけではない。古代ローマ帝国の国教がキリスト教になっても、その反対勢力であるユピテルを頭とするローマ神話の神々は存在し、これらの旧勢力がキリスト教を全面的に支持した訳でもないに違いない。やがてローマ帝国の分裂に向かうことになった。分裂した東西ローマ帝国はいずれの国もキリスト教国となったが、台頭してきたイスラム教国に追い落され続ける国家でであった。私は、わが国の天孫降臨に卑弥呼以来の旧大和朝廷と聖徳太子と中大兄の皇子が進めた仏教による革命・「大化の改新」で生まれた天平・飛鳥時代とキリスト教を国教にしたローマ帝国とが基本的に酷似しているように思われる。
古代ローマ帝国は国土が巨大になりすぎて統治が行き届かず、4分統治から、やがて、東西に分裂したが、それはキリスト教を国教化することで、旧勢力との対立もあって、国家統治が弱体化したためでもあったと推察する。そこに8世紀に誕生したイスラム教国が、政教一帯で国威を拡大する政策で版図を拡大した。台頭してきたイスラム教国は、実はアッラーというキリスト教国のエホバと同一神を唯一神とするヘブライズムの国家であった。そのため、キリスト教国にはイスラム教国が大きな軍事力を備えた国家に成長した理由が解からず、キリスト教国は東方のイスラム教国の統治のシステムに倣うしかないと考えた。イスラム教国はキリスト教国の東方に位置するオリエントの国家(アラビアで急成長したイスラム教国)に学ぶ(オリエンテーション:ルックイースト)政策が採られることになった。
キリスト教の国教化と国力の衰退に始まる西ローマ帝国に崩壊
中世キリスト教国に合理主義・経済主義・欲望の実現の正当化を認めた結果が、「産業革命以降の大航海時代に始まる合理主義思想(ヘレニズム思想)の原点になったのである。今回の『私のローマ紀行』の底にあってキリスト教国を強力にしてきた秘密として確認しようと思って求めたものは、古代ローマを支えたヘレニズム文化・文明であり、ルネサンス思想とともに展開されたルネサンス運動である。ルネサンスがどのように西欧諸国の世界支配につながったのかを知ることが、私のローマツアーの目的であった。ルネサンス思想によって、中世の禁欲的なキリスト教ではなく、古代ローマ文明を中世世界に受け入れさせることになった人間の欲望に正当性を与えていた古代ローマ帝国を支えたヘレニズム思想の正当化こそが、ルネサンスの果たした役割であった。人々に追及することの許される欲望は、ヘレニズム思想とヘブライズム思想で止揚された近代資本主義思想の倫理観で許容されるものになった。
昨日雹に打たれたフォロ・ロマーノやパラチーノの丘には足場も悪く行かないことにして、そこはカンピドリオの丘など周囲から眺望することに留め、又は、後日文献を読むことにした。この日の現地見学は、フェロロマーノを囲む周辺の高台(パルチーノの丘)から鳥瞰するだけにして、足元の悪いところを歩くことは止めにした。泥道になっているところは、天気は良くなっていたが、依然足元は悪く、地下に埋設されている様子を見る訳ではなく、見学ツアーは考古学的に遺跡を見聞するものはないため、今日は途中で現地踏査は切り上げた。そしてカンピトリーノ広場にあるコンセルヴァトーリ宮殿で、現在のカピトリーノ美術館とその後、美術館の展望バルコニーから、眼下に展望できるフォロ・ロマーノやパラチーノの丘に連なる景観を展望することにした。
カンピトリーノの丘は古代ローマの神々に捧げられた聖なる場所である。この広場やそこに立っているミュージアムからの周辺の眺望は、古代とーまの都市計画として非常に良い景観としてつくられたようである。広場の北側にはヴィットル・エマニュエル2世記念館があり、白亜の建築物であるため、この地区全体には調和しているように見えるが、そこが「ムッソリーニのファシズム礼賛の建築物」と考えると、イタリア人には国家の威信や民族の力を誇るべき空間であるかもそれない。しかし、世界大戦の悲劇を経験し、戦後の憲法でその教訓を国の基本にした国の国民としては、戦前のナチズム、ファシズム、国粋主義とのつながりを連想させられ、軍国主義の礼賛に思われ平和が破壊を感じさせられた。
ヴァチカン美術館に並ぶカンピドリーノ美術館(コンセルヴァトーリ宮殿)
カンピトリーノの丘には、古代ローマ時代には古代ローマ帝国の守護神たちの神殿が立っていた。この地は、ルネサンス時代、ミケランジョロにより、元元老院宮殿(コンセルヴァトーリ)を広場の奥に左右に双子の宮殿を廃止、現在のカピトリーノ美術館になっている。古代ローマ時代、この広場では、ローマが戦いで勝利したとき、その勝利を祝う凱旋式が行われた。軍団兵らはフォロ・ロマーノを通り、カンピドリーノの丘に至ると、最後の1人がユピテル神殿の最高神(ユピテル)に感謝をささげた。その歴史を観光ガイドブックは多くの写真とともに簡単に解説してくれる。事前にガイドブックを読んでおくことで短時間の現地滞在で驚くほどの歴史的事実を現地で経験することが出来た。
16世紀のルネッサンス時代に教皇パウルス3世は、ミケランジョロにこの広場の整備を命じた。この広場の中心には5賢帝の一人、マルクスアウレニュウス帝の騎馬像が置かれている。2つの向かい合って立っている建築物はカンピトリーノ美術館として使われており、古代の彫刻、ルネサンス期やバロック期の絵画などを多数収蔵している。このカンピドリーノの丘は周囲の地形より高い位置にあり、周囲の眺望がよく美術館からのフォロ・ロマーノやパラチーノの丘の眺望は、かつて廃棄物の山になったという話もあるが、現在では、古代ローマ人が鑑賞したと同じように美しい景色に復元されているように思われた。3000年を超えるローマの興亡史を現在みることが出来る景色である。
そこで古代ローマ時代に思いをはせて周辺の景色や遺跡を心行くまで眺望した後、美術館のレストランで軽食を楽しんだ。カンピドリーノの丘を下って地下鉄B線のコロセアム駅まで、左手にトラヤヌス市場、カエザル・フォロー、アウグスチヌス・フォロを景観として見ながら、コロセアム駅まで歩き、テルミニ駅に戻った。ガイドブックで読んだ解説と現地で見た風景が去来して、子だおローマ時代を垣間見た錯覚に「すごい経験をしたという興奮を感じた。
(んぽ法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)