HICPMメールマガジン第832号(2019.05.28)
みなさんこんにちは
トランプ大統領が国賓として迎えられ、今上(令和)天皇の晩さん会で両者のご挨拶が交換されTVで報道されました。両国元首のご挨拶はいずれも相手国の国家と国民と国家の首脳の歴史・文化に対する尊敬に満ちたもので、両国の視聴者に高い満足を与えるものでした。ここで交換されたご挨拶は、両国国家が準備したものに違いはありませんが、その優れた御挨拶であった理由を考えてみました。共通することは、いずれのご挨拶も相手国の歴史・文化に対する尊敬と理解の気持ちで構成されていることでした。令和天皇は自らの過去の欧米訪問を通して得た欧米文化に対する理解を歴史・文化的な理解として示すもので、国家の元首としての教養の高さを示していました。両元首とも、相手国に対する人文科学的な認識に基づく御挨拶であったため、それを聞いていた両国民に満足を与えることができました。
私は住宅・建築・都市問題に半世紀以上関係し日本と欧米を比較し、欧米は消費者に高い満足を与える人文科学の問題として取り組まれてきたためです。欧米ではこれらの問題を歴史・文化認識を中心に取り組まれているのに対し、わが国では物づくりや経済的豊かさを追い求める技術として扱ってきました。その欧米とわが国の視点の違いは、今回のご挨拶には現れていません。両元首のご挨拶は国際的で、普遍性を持った人文科学的な認識の上に作られ、国民として国際社会に恥じないご挨拶だったと思います。一方、トランプ大統領の場合、これまでの政治において自己中心的な取引重視の姿勢がありましたが、今回のご挨拶は人文科学的歴史認識に立つものでした。日本の歴史文化の理解を万葉集の2歌人を引用した人文科学的理解に立ったものでした。両国を相互の歴史文化に立った違いを尊重し、個性を認め合うことで、両国は対等で尊重し合える関係が構築できることを示していました。
わたくしの「ローマ旅行記」
2019年5月8日から17日までの10日間、古代と現代ローマとが同居しているロローマの都市文化の調査に行ってきました。これは私の住宅・建築・都市問題との取り組みの中で、住宅を取得して国民が豊かになっている欧米と、貧困にさせられているわが国の違いを約半世紀、住宅・建築・都市行政界及び住宅産業界で活動し経験したことを、振り返って取りまとめてきました。住宅・建築・都市問題の基本的認識を経済的「フローの利益」中心の工学的に行ってきたわが国と、消費者の住宅資産的豊かさという「ストックの利益」中心に人文科学的に考えてきた国の違いにあると考えてきました。
住宅・建築・都市問題を人文科学(ヒューマニティーズ)として研究し、教育してきは欧米と、有効な取引をするための建設工学(シビル・エンジニアリング)として扱うわが国の基本的違いが、調査研究の結果明らかになり、それを昨年、『欧米の建築家、日本の建築士』(井上書院)に取りまとめました。その中で欧米の建築設計の基本的な礎となった近代様式建築設計の源流となるルネサンスとアンドレア・パラディオの建築設計パラディアン様式を追いかけて、昨年は北イタリア(パドバ、ヴィチェンツァ、ヴェネチア)を1週間、訪問しました。そこは西欧を数世紀に亘って風靡したグランドツアーの舞台の一部として、ゲーテが『イタリア紀行』に記載した古代ローマに戻る取り組みでした。
人文科学として住宅・建築・都市を研究・教育対象としている欧米社会では、ルネサンス「古代ローマに回帰する」運動の源泉があります。フランスのエコール・デ・ボザールでは、古代ローマ文化・文明を発展させたヘレニズム文化により建設された古代ローマ建築に回帰する「ヴィトルビュウスの建築設計」に回帰する取り組みが展開され、古代ローマ建築を最も解かり易く理解する方法として、アンドレア・パラディオの取りまとめた「建築4書」に基づくルネサンス教育が行なわれました。
その後、西欧近代文化・文明の下に花を咲かせ、西欧社会の発展の原動力になったルネサンスは、イスラム教国の勢力の拡大に対抗して取り組まれた文化運動である。ルネサンスはフィレンツエで始まり、ヴェネチアに飛び火し、ローマの復興をもたらし、グランドツアーを介して欧米世界の住宅・建築・都市を変革し、併せて欧米社会を産業革命と航海術を使った国家経営で席巻した。ルネサンスは文化運動というよりもむしろ、政治・経済及び社会思想運動として西欧世界の国家経営の魂を、ポルトガルを先頭に西欧社会の海外進出と植民地政策の原動力になった。新たに建国されたアメリカ合衆国は、ユリウス・シーザーによる属州をローマ帝国に吸収して行った古代ローマ帝国経営を、米合衆国の国家経営に取り入れたともいわれるほど、普遍性を持った国家経営の基本であった。
ポエニ戦争で地中海の制海権を握り、食料供給の植民地をシチリアとエジプトに拡大した。ハンニバルを打倒したスキピオ・アフリカヌスの邸宅のあったピンチョの丘は、17世紀初めに、ローマの都市計画を意欲的に進めた教皇パウルス5世の家柄で、枢機卿を任ぜられたピオーネ・ボルゲーゼの別荘の庭園としてつくられた。今回のローマでの一つの目的地は、ピンチョの丘も含まれるボルゲーゼ公園の西にある。ピンチョの丘を下ったところに初代アウグスツス皇帝がエジプトから持ち込んだオベリスクが立っているポポロ広場がある。バロック様式の都市計画としてのポポロ広場に面して双子の聖堂が建てられ、広場から南南東にコルン通リが造られ、その先の行き止まりに、近代国家イタリアの富国強兵時代の国家政策を象徴するローマの巨大交通ターミナルの一つのベネチア広場である。
この広場に面し、近代イタリア国王(1861-78年)ヴィットル・エマヌエル2世記念館があり、その南に古代ローマ文化を集めたカンピドリオ宮殿がある。古代ローマ帝国から現代までを繋ぐ幹線がコルン通(旧アラミニア街道)である。ヴェネチア広場の南に立つヴィットル・エマヌエル記念館の南が、古代ローマの政治の中心カンピドリオ広場である。そこにはルネサンス時代、ミケランジョロの手掛けたジャイアント・オーダーのカンピドリオ宮殿のファサードの柱列の建築物と幾何学模様の広場があり、その中央にマルクス・アウレニウスの騎馬像が立っている。ポポロ広場とベネチア広場を結ぶコルン街道の中間にコロンナ広場があり、現在広場に面して首相官邸が置かれているが、そのコロン広場に古代ローマ時代の5賢帝の最後に登場するマルクス・アウレリウスの記念柱(コロン)がある。柱の頂上には、建立当時のマルクス・アウレニウスに代えて、現在は聖パウロ像になっている。ポポロ広場から南に3本の道路はバロック様式の都市計画で放射線状に作られている。
100万人を超える人口を擁した古代ローマは、ゲルマン民族の大移動とバンダル人により破壊活動により、ローマ人の生命線であった水道網が破壊され、西ローマ帝国は崩壊したローマには2万人の人口も住んでいなかった。その間の歴史はあまりに急激な国家崩壊のため、崩壊過程の歴史自体現代になっても、はっきりわかっていない。現代ローマを訪問すると、トレビの泉、ナヴォナの広場、スペイン広場、パンテオン前のロタンダ、サンピエトロ広場、ポポロ広場、コロンナ広場、ベネチア広場、大統領公邸のあるクイナーレの丘、カンピトロの丘などローマの街には池や噴水が都市造形となって作られていて、ローマが如何に水道施設と切っても切り離せない関係にあることが解る。
ローマ帝国は水道橋で支えられた水道供給システムに支えられた国家であったためで、水道橋が破壊されてしまえば、都市機能は自然消滅させられた。そのうえ台頭してきたイスラム教国に対抗してキリスト教国を復興するために、神聖ローマ帝国は、古代ローマを建設したヘレニズム文化・文明への回帰(ルネサンス)に取り組まざるを得なかった。おの象徴的取り組みは、古代ローマの水道システムの復興であったともいわれている。現在盛んになっている「現代のグランドツアー」ともいうべき、ローマ観光の中で、多くの観光客が訪問するトレビの泉以下、ナヴォーナ広場の3大噴水、モーゼの噴水、スペイン広場のパレカッチャ(難破船)の噴水、バルベリーニ広場の「蜂の噴水」、「交差点の4隅の建築物と一体に作られたバロック彫刻と一体になった物語のある噴水などである。
全ての噴水は古代ローマ時代に作られた水道をルネサンス時代に復興することで作られたものである。
これらの噴水はルネサンスの発展形としてベルニーニやその弟子たちが製作したバロック様式の彫刻と結びついて都市造形となっている。都市を刊行できるようにオリベスクを建設し、旅行者の道案内にもした。古代ローマはエジプトを支配し、エジプトから輸入したオリベスクとともに、多くの都市造形に使われたバロックの彫刻は、サンピエトロ大聖堂に象徴されるように、都市空間の中心に彫刻を取り入れた力強い建築くうかんを出現させることになった。中国の風水思想と同様、都市にエネルギーを持ち込むものが「風水」(雲を運ぶ風と直せつぃ水を誘導する河川)である。ローマにおいても水道網と池と噴水を使った都市造形で眺望の優れた都市計画が行なわれてきた。
古代ローマの盛衰を象徴的に表している建築物がパンテオンである。パンテオンはイスタンブールにあるハギア・ソフィアと同様な運命を担わされている。古代ローマ帝国時代のローマ神話の神々を祭る神殿(万神殿)として建設された建築物が、コンスタンチヌス帝の時代古代ローマ帝国はキリスト教を国家の宗教として受け入れ、キリスト教の神殿として建設にされたが、その後、アナトリア半島は、イスラム教の支配下になることによって、キリスト教の聖堂として建設されたハギアソフィアは、イスラム教のモスクにされた。その後、イスラム教とキリスト教双方から距離を置いて宗教施設ではなく国家の博物館となった。西欧社会では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの宗教対立は強いが、いずれもエホバ(ヤーベ、アーラー)という同一の人格神をたたえる一神教信教で、聖堂がモスクとして利用されるなど、同じ宗教施設がそれぞれの宗教により利用されることはよくあることである。
ローマの市街地の中心にあるパンテオンは、ハギア・ソフィア同様にローマ神話の神殿から、キリスト教の神殿になり、現在は国家の博物館になっている。パンテオンの正面からの景観(ファサード)はギリシャ神殿と同様8本のコリント様式の柱列で飾られた神殿である。建設後火災によって崩壊した神殿をハドリアヌス帝が再建した神殿が現在のパンテオンである。神殿の本体部分は、直径43.3メートルの球体を収納できる空間を建築構造的に安全に作るため、その構造壁は、スライスレンガを天然モルタルで固めた壁厚さ6m(上部1.5m)の壁体で造られている。この構造は安土桃山時代織田信長ら防御用のカベの築城技術として採り入れた「信長塀」(瓦を漆喰で固めた構造壁)と呼ばれるものである。パンテオンの建築構造を見ると現在の建設工学(シビル・エンジニアリング)の原点が軍事工学(アーム・エンジニアリング)であることが解る。
わが国の大和朝廷時代、大伴・大連による氏族制による武力支配国家出逢ったが、新党を国家宗教に護持する氏族国家を、天智天皇が仏教による国家革命「大化の改新」を行ない、氏族支配から仏教による国家支配を行なった。古代ローマ帝国はネロの政治に代表されるとおり、ヘブライズム(ユダヤ教)を弾圧し、部族の力による政治をユピテル(ローマ神話の神)の皆の下に弱肉強食で行なう部族国家であった。コンスタンチヌス帝は、それまで古代ローマ帝国がローマ神話に登場する神々の名のもとに、エホバという人格神を護持するユダヤ民族の弾圧などを行なっていた。この古代ローマ帝国の政治に反し、エホバの名のもとに「永遠の命」を復活によって得られると「ミレニアム思想」を背景に、キリスト教による国家革命(支配権の交代)を行ない、宗教による人心一新を行なった。国家の内紛は、古代ローマ帝国を衰退させた。6世紀になって、ローマ帝国は東西に分裂し、やがて西ローマ帝国は民族移動と異民族の攻撃に遭って崩壊することになった。9世紀になってイスラム教の台頭に対抗することが検討された。イスラム勢力の力の原因が古代ローマを支えたと同様のヘレニズム文化によることが解り、キリスト教国内部に古代ローマへの回帰運動が始まった。それがルネサンスであり、それを社会運動に広がって行った運動がグランドツアーで、古代ローマの原点を学ぶ運動であった。
ルネサンス時代に、英国はチューダー王朝の時代で、ヘンリー・チューダー(8世)はローマ法王庁の言う「王権神授説」を尊重するも、その王権を授与する神の機関としてローマ法王庁に限定することを認めず、代わって英国はローマ法王庁の支配を受けない英国国教会を独自に創設し、カンタベリーとヨークにある大聖堂の国教会の業務をロンドンにあるウエストミンスター寺院で、国王の戴冠式として行うことで、ローマ法王庁の宗教的権威を蹂躙した。そのことでローマ法王庁の怒りは心頭に発し、「英国人がヨーロッパ大陸に足を踏み入れてはならない」として、英国人のグランドツアー参加を拒否した。当時、欧米では国家の指導者になる人は、例外なくグランドツアーに参加して、古代ローマが地中海世界を支配した時代の歴史文化・文明を学ぶ運動が、イスラム教徒対決する国々では、ルネサンス運動として生み出された。その運動から締め出された英国はその時代の流れに遅れまいと必死になってルネサンスを学ぼうとしたが、ローマ法王庁によりグランドツアーへの参加は阻止され、ツアーへの参加の思いとルネサンスへの関心は高まった。英国人は古代ローマ帝国を支えていたヘレニズム文化を吸収するため、ルネサンス運動に参加しようと願っていた。そのためフランドル地方を経由してルネサンスが英国に伝えられることになった。しかし、フランドル地方を経由したものは、繊細なものになっていて、ユーロッパで受け入れられているルネサンスではなかった。
ヘンリー8世が死亡してエリザベス女王が王位を継承すると、ローマ法王庁から英国人のヨーロッパのグランドツアーに参加できる許しが出され、多数の英国人の支配階層がグランドツアーに参加した。第1回目に英国の最高の地位にあった国王付建築監の地位にあったイニゴー・ジョーンズがグランドツアーに参加し、ヴィチェンツァを訪問し、アンドレアパラヂオの業績を見学した。イニゴー・ジョーンズは、古代ローマ時代に作製されたヴィトルビュウスの『建築10書』を買い求めるとともに、アンドレア・パラディオの資料を多数収収集し、帰国後、ロンドンで英語版の『建築四書』を出版した。そしてイニゴー・ジョーンズは、英国に最初のルネサンス様式の建築物をグリーンニッチにクイーンズ・ハウスを建築した。その後にに英国政府の高官としてグランドアーに参加した建築家・サー・クリストファ・レンは、グリーンニッチ天文台と海軍病院をルネサンス様式の建築物として建築し、さらに、ルネサンス建築の総仕上げとしてロンドンの中心街に、セントポール寺院を建設した。1666年英蘭戦争時にロンドンのシティのパン屋から発生した火災により、ロンドンの85%を焼失した。それは英国の建築物がアングロサクソンの船大工の木造建築で作られていたためであった。
ロンドン大火災後、サー・クリストファー・レンは、「ロンドン火災の復興は、木造建築を禁止し、レンガを使ったルネサンス建築として復興すること」を女王陛下に提唱し、その提案は採択された。火災復興のルネサンス様式の標準設計は「レンが設計したルネサンス様式」ということで「レネサンス」と呼ばれた。この建築様式(レネサンス)は、7つの海の制海権を握ることになった英国によって、世界中に広められることになった。最初建設されたレネサンス様式は、ジョージ王朝時代にはジョージアン様式とよばれ、英国の植民地では、イングリッシュ・コロニアル様式とよばれた。それはやがて、単にコロニアル様式とよばれ、地球上に広く活用された。このレンガを使ったレネサンス様式の標準設計は、英国ではジョージアン様式とよばれた。英国の植民地から独立したアメリカでは民主国家の建国の建築として、ウイリアム・ペンが英国からレネサンス建築の標準設計を持ち込んで、首都フィラデルフィアの都市づくりに採用し、「建築家がいなくて新都市の建築がレネサンス建築によってつくられた」と言われるようになった。ジョージアン様式とよばれた英国から米国に持ち込まれた建築様式は、高い煉瓦製造精度で、目地幅の小さいフェデラル様式に改善され、全米に広く利用されることになった。
米国では新興国家建設を古代ローマに立ちかえって、ヘレニズムの思想を取り入れてルネサンス建築様式でつくろうと考えた。そこで、多数の米国の優秀な建築家にルネサンス建築設計を行なわせるよう、多数の米国を代表する建築家モリス・ハント、リチャードソン、サリバンなどその後の米国の建築設計会を牽引した建築家をグランドツアーに参加させた。彼らにはエコール・デ・ボザールでルネサンス様式を学ばせ、帰国後フランスで学んだルネサンス様式の建築設計を行なった。当時はパラディアン様式とも呼ばれていた建築様式の建築を建設した。それらのグランドツアー参加建築家が米国で建築したパラディアン様式の建築をアメリカン・ボザール様式、アメリカン・ルネサンス様式とよばれ、わが国にも伝えられた。これらの建築家たちはグランドツアーでイタリアも旅行して、古代ローマの遺跡を学び建築のファサードを飾る柱列のオーダーを学び、米国のルネサンス様式建築に取り入れた。
その当時ドイツの地理学・考古学者シュリーマンが、ギリシャ神話の『トロイ戦争』を神話ではなく、実際の歴史と信じ、トロイ遺跡の発掘に取り組んだ。その結果、トロイ戦争は神話ではなく、歴史上の事実であることを発見した。そのうえ、ギリシャは民主国家であり、都市ごとに個性ある色彩(例:アテネは赤、スパルタは青)を使っていたことが解り、新しく民主国家を建設するアメリカは、ギリシャの建築を真似ることで、民主国家建設をしようと考えた。その結果、現在「グリークリバイバル様式」の建築物や、サンフランシスコで「極彩色の貴婦人」(ペインティッド・レイディー)と呼ばれる建築物がゴールド・ラッシュを契機に一体になって建設されることになったため、豪華な建築には色彩を付けることが始まった。その影響は欧米全体の建築に影響を与えることになった。
現在、フィラデルフィアに行けば見ることが出来る多くの建築様式は、エコール・デ・ボザールに留学した建築家たちが、当時、最新のパラディアン様式を最も進んだ建築デザインとして採用されたものであった。米国で登場したルネサンス様式の建築物は、パラディアン様式より寸法の大きなものが多く、そこには民主国家の建設に対する米国の建築家の思いが強く反映し、それをアメリカン・ボザール、又はアメリカン・ルネサンスと呼ぶようになっている。つまり、米国の建築家は民主的な国家建設の思想をルネサンス建築に学び、その建築思想が豊かな資源に恵まれた国家社会の建設にルネサンス思想を駆使することになった。当然、当時の建築家は、国家建設の思想家として古代ローマのヘレニズム文化を学び、俺を実践しようと考えた。それは建築様式の模倣ではなく、建築思想の実践として古代ローマの政治経済を一体的に学ぶものであった。米国の民主国家はローマの国家建設の影響を受け、建築だけではなく古代ローマのユリアス・シーザーの政治・経済を取り入れることになった。
今回の私のツアーは、ローマ・欧米の近代国家のデザインとして都市空間を席巻することになったルネサンス建築様式は、古代ローマやルネサンス時代のローマにおいてどのような展開をしたのかを体で感じるための調査旅行であった。今回はツアーの3カ月前からローマの建築関係図書を読み漁り、ローマの建築・都市関係情報をできるだけ頭に叩き込んで出かけた。見学場所の計画は何度も変更し、ローマに出掛けてからも変更した。アンデルセンの即興詩人(森鴎外訳)や、ゲーテ『イタリア紀行』も読み、ローマの様子が少し理解でき、懐かしく感じられるようになった。イタリア語が読めない、掛けない、話せない状態ではあったが、欧米の建築歴史との関係で、3000年以上の歴史文化の理解が進んだことにより、ローマの様子が、パラディアン様式くぉふくんで、身近に理解できるようになった。
英国におけるルネサンス建築の取り組みと、米国におけるルネサンス様式の取り組みは、これまで英国や米国の建築デザインツアーでそれなりに勉強していたし、文献による建築様式もHICPM創設後30年近く行ってきたため、ある程度の知識と能力が形成され、街並み歩きを楽しむ小尾が出来た。しかし、それは私自身が理解したいと望んでいるもののほんの一部でしかないことも、結果的に理解することになった。欧米社会で様式建築の社会の中で果たしている現実をローマに出掛けることで分かったような気がしている。その最も重要なことは建築思想の伝達で、それは建築様式の歴史に根を張った歴史文化の理解なしにはできないものである。今回はまず「ローマの建築を楽しめたこと」をお伝えすることで取り敢えずのローマ紀行報告に変えることにしたい。