HICPMメールマガジン第816号(2019.01.16)
みなさんこんにちは
軍需産業復興のための産業労働者住宅と公営住宅
米軍がベトナム戦争で敗北し、わが国が日米安全保障条約に基づく米軍の兵站基地として米軍のために軍需物資を生産する産業の労働者向け住宅供給の義務を果たすことが事実上不可能になった。その結果。それまでわが国が行なってきた住宅政策を根底から変化させざるを得なくなった。1950年の占領統治時代以降、わが国は日米安全保障上、米軍の兵站基地にあることは代わっていない。わが国が占領軍の支配下にあった時代も、その後日米安全保障条約が締結されて、米軍による占領政策が継続されることになっても、現在、辺野古基地移転を巡る論争の中で、米軍基地の国内分散政策の議論を通して、日米安全保障条約が日本全体を米軍の兵站基地としていることが、基本的に変わっていない。1950年に進駐軍が、旧軍需産業資本(財閥)が朝鮮戦争の勃発に合わせて財閥解体の政策を反故にし、代わって軍需産業で雇用される労働者のために供給する住宅を、住宅金融公庫を設立して財政投融資を投入した政策が採られた。このことに当時の野党は、国民の多くが戦後の住宅不足に悩んでいるとき、旧軍需産業復興のための労働者住宅を、旧財閥を支援するために行ったことに反発した。
政府は、戦後の英国の住宅政策の情報を得て建設省住宅局の技官たちの中で英国の住宅政策を学び、わが国でも公営住宅制度を創設したいという取り組みが始められていた。その要求は進駐軍の理解を示しながらも、当時の朝鮮戦争を前に取り組むことはできないという考え方を示していた。実際に旧軍需産業を復興しそこで軍需物資の生産を行なうためには、それらの旧軍需産業の下請け等の企業で働くより低い所得の労働者に対する住宅を供給しなければ実際に軍需物資の生産に携わる労働者を確保できないと政府も米軍も考え、それらの低所得労働者に居住する住宅として公営住宅の供給を、公営住宅として供給する必要を進駐軍も認めていた。野党は政府が進める旧財閥の復興のための産業労働者住宅の供給に対する対立政策として建設省の住宅官僚が英国の政策に倣って知識組み始めた公営住宅を優先させる政策を取り上げたため、その政策の優先を巡って与野党の政策対立が顕在化し、1950年に住宅金融公庫の設立と産業労働者住宅制度が創設され、翌年1951年に公営住宅制度が日本憲法で新たに創設された地方自治制度と抱き合わせで地方公共団体の住宅制度として発足された。
占領政策を引き継いだ日米安全保障条約
日本国憲法に違反する日米安全保障条約が憲法を押し退ける形で締結されたから、進駐軍による産業労働者住宅も、公営住宅も米軍の兵站基地の政策として行われたことは当然である。その歪んだ枠組みの中で、ベトナム戦争の終焉はわが国の住宅政策を、米軍の兵站基地の軍需産業労働者のための住宅供給を行なう住宅政策の枠組みを軍事物資の米軍への供給が不要になった結果、産業労働者向け住宅が米軍の兵站基地の機能から切り離されたことも事実である。米軍の軍需産業労働者向け住宅を供給する必要がなくなったので、それまでの住宅産業労働者向け住宅需要が消滅し、わが国の住宅産業は需要を失い、その結果、わが国の経済政策が混迷する危険に曝されることになった。それは狭義の住宅金融公庫による産業労働者向け住宅や日本住宅公団による特定分譲住宅だけではなく、公営住宅を含む政府施策住宅の全てが「軍需産業向け住宅」としての供給を義務付けられる根拠を失った。
日米安全保障条約に基づく日米関係の基本としての米軍の理解は、わが国は米軍の兵站基地であるから、その兵站基地を維持するための軍需物資の生産に必要な産業労働者向け住宅の供給は、日本政府がその政策責任によって行うという認識が存在する。それに対し、米軍には占領政策とそれを持続した日米安全保障条約が継承していると考えてきているのに対し、わが国政府は、当初は住宅金融公庫による産業労働者向け住宅だけであるかにように国民に説明してきたが、それは国内向け説明であっても、米国を縛るものではなかった。1950年当時のわが国政府の米軍の軍需産業向け労働者向け住宅は、住宅金融公庫による産業労働者向け住宅であって、公営住宅は国民一般を対象にする一般住宅であるとする虚偽の説明が、ベトナム戦争終焉時のわが国の住宅産業の置かれた危機的問題の社会的理解を妨げていた。日本政府はわが国が米軍の兵站基地であるという事実を、日米間の国家間レベルの公式協定とその実行上は認めながらも、わが国の国民に対してはひた隠しに隠し続けてきた。
それは1950年に旧軍需産業を復興するため、日本国憲法発布の際明らかにされた旧軍需産業資本(財閥)の解体を反故にし、旧軍需産業の生産活動を再開させるように政策転換された。そのとき占領軍は、その軍需産業が雇用する労働者向け住宅を日本政府にわが国の政府資金を使って旧財閥向け住宅金融を行うことを要求し、政府は米国の要求に応えて住宅金融公庫を創設させ、すでに先行していた旧財閥資本が経営する炭鉱の労働者のための「炭鉱住宅の新築と修繕」のための金融を行うことを実施していた。そこに旧軍需産業労働者向け住宅を「産業労働者向け住宅」として、既に、「炭鉱住宅の復興」として旧財閥に産業向け新築及び住宅修繕を対象にした復興融資を実施した実績を追認する形で、住宅金融公庫に産業労働者向け住宅(社宅)の融資を行なわれることになった。なぜ、住宅金融公庫が設立され、産業労働者向け住宅金融が始められたかという疑問が、私が1962年に建設省住宅局に採用されたときから疑問であった。その疑問が最近戦後のわが国の住宅政策を研究する過程で、米軍が朝鮮戦争でわが国の旧軍需産業(財閥)の復興方針を決め、その軍需産業労働者の住宅を供給するために住宅金融公庫を創設種いなければならないと判断し、その資金を、財政投融資を充填させることにしたことが明らかになった。住宅金融公庫はその創設目的に国民の住宅対策は考慮されておらず、旧軍需資本(財閥)の復興支援を行なう政府機関であった。その住宅金融公庫の生い立ちの秘密こと現在の住宅支援機構の違法な「日本式MBS]の性格の萌芽が認められる。
日本国憲法違反の軍需産業労働者向け住宅
歯に衣着せずに言えば、朝鮮戦争の勃発以前から、石炭エネルギーは旧軍需産業資本(財閥)が所有していて、戦後復興は旧財閥の解体を決めた日本国憲法の流れの中で実施に踏み切れなかった課題であった。偶々、朝鮮戦争の勃発によって、米軍は日本を米軍の兵站基地にしないで朝鮮戦争を戦えないことが解ったため、米国はサンフランシスコ平和条約で日本の独立を認める世界の考えに同意したが、突然勃発した朝鮮戦争に勝利するため、サンフランシスコ平和条約の締結と同日付で、日米安全保障条約という占領政策を事実上継続する片務的な日米同盟を締結し、わが国を米軍の兵站基地の扱いを維持する政策を断行した。日米安全保障条約は日本国憲法に違反する条約であることは日米当事者とも了解していて、憲法違反を承知の上で締結されたものであった。1960年当時の岸信介首相(現在の安倍晋三の祖父)は、日本国憲法違反の日米安全保障条約を憲法違反状態から適法状態にするため、1959年5月の東京地方裁判所(裁判長伊達秋雄)で日米安全保障条約は日本国憲法違反と判決された。それに驚くき、岸信介首相は、日米安全保障条約改定を翌年6月に控え、米国向けの日米安全保し央条約改正のための国内環境を整備するため、11月に砂川事件の飛躍上告審を開催させることにした。則で介させることになった最高裁判所において、岸信介は田中耕太郎最高裁判所長官に圧力をかけさせた。その結果、田中耕太郎裁判長は、「日米安全保障条約は、「日米安全保障条約は日本国憲法に違反する」事実を否定することが出来なかったので、日米安全保障条約は、「国際的な条約は尊重されるべきで、それを日本国憲法に照らして裁くことは不適当である」という趣旨の判決を行なわせた。その判決は日本国憲法は日米安全保障条約の下位に位置づけられ、日米安全保障条約は、日本国憲法違反してもよいことを最高裁判所判決において認めさせることになった。その後、岸信介は、日米安全保障条約に沿うように、対米従属的な憲法改正を行うことを米国に通知していた事実が2018年末に公文書が公表され明らかになった。このような国民を裏切る政治家を「売国奴」と昔は非難していたが、現在わが国の安倍晋三は、自らの利益を中心に考え、内閣挙げて岸信介と同じ行動をとっている。
公営住宅を巡る与野党の政策と米軍の占領政策の意図
1950年当時、米軍は日本政府に朝鮮戦争で必要とされる軍需物資の買い上げを約束する見返りに、旧軍需産業資本(財閥)を解体すると国民に約束した政府の命令を反故にさせ、その代わり、わが国の経済復興は軍需によって経済復興されるので、わが国は軍需産業労働者のための住宅供給に責任を持つことを求めた。そして住宅金融公庫が創設され、産業労働者向け住宅(社宅)に対する住宅金融が始められた。しかし、既に住宅金融公庫の創設に先立ち、旧軍需資本(財閥)が所有する炭鉱労働者向け住宅の新築及び修繕予算が、国民の預貯金や簡易保険の財源を財源とする財政投融資を使って実施され、それが、住宅金融公庫に対する住宅資金となっていった。結果から判断されることは、旧軍需産業の復興政策のうち産業で働く労働者向け金融は住宅金融公庫を創設して行われるという筋書きの下に、米軍の兵站基地を維持するための住宅政策が行われてきた。しかし、国民にはその本音の説明がされないで、取りあえず軍需産業向け労働者には社宅を建設する金融を政府金融として行うことが決められた。わが国の国民の住宅事情は住宅政策が存在しないため、最悪な状態が続き、それに見かねた建設省住宅局からは、英国の住宅政策情報から、英国政府は公営住宅法を制定し、国民の80%を対象にする公営住宅制度と、ニュータウン法を制定してニュータウン開発を始めたことを取り上げ、わが国もそれに倣いことを政策に取り上げる動きを始めた。米軍はわが国の軍需産業が下請け構造によって成長したことを知っていて、軍需産業を復興するためには、軍需産業の下請けとして働く企業や労働者が就業できる環境を整備する必要を認め、低所得者向け住宅を、建設省住宅局の要求を受け入れる形で「公営住宅法」の制定を認める方向で承認した。
当時の米国は朝鮮戦争に依って朝鮮半島南部の釜山まで追い詰められ、今にも朝鮮半島から排除されそうな危機的状況にあり、米軍は朝鮮半島中部の仁川に紀州上陸作戦を断行し、起死回生の勝利を得、朝鮮戦争を回復させることになったが、米軍に決して余裕のあった戦争ではなかった。わが国の旧分樹産業の復興をするために、軍需産業で働く労働者の住宅の確保がいかに重要な問題であったかを米軍は十分知っていて、その下請け労働者を入居させる住宅の供給を、野党の「国民向け住宅供給」にすりかえて、全国の都道府県、市町村を巻き込んだ公営住宅として供給することで、国民全体を軍需産業労働者という扱いではなく、国民住宅の供給という枠組みで、地方公共団体に日本国憲法を実践する幻想を与えて進められたということは、わが国国民に朝鮮戦争を感じさせないで、公営住宅政策により、米軍の軍需産業を支援するように全国民を組み込んだ米軍の政策の成功であった。
そのことに関し、社会党と共産党が支持する公営住宅政策と政府と産業界が要求する産業労働者住宅政策とが対立する形で国会論争されることになった。そのような住宅論争を与野党対立させて煽ることは、国内の国民の住宅要求の不平を取り除く風穴となり、表で対立を演出し、裏で手を結ぶ政治として行われていた。それが確立を利用して党勢拡大の道具にしたのが「55年体制」と言われる自民・社会の与野党馴れ合い政治で、その最初の馴れ合いこそ、公営住宅と金融公庫による産業労働者向け住宅の並立として行われた。1962年、私は住宅官僚となっとき、公営住宅法の施行に関係した当時を思い起こすと、公営住宅と金融公庫融資住宅とは与野党が「敵対する政策」であるかのように説明されていた。その本質は日本の住宅政策全体が米軍の軍需産業に貢献する政策の片棒を担がされていた。米軍向け軍需産業(旧財閥)には社宅を供給し、社宅に入居できない労働者には公営住宅を供給するという政策で、両者とも、同じ目的の住宅政策であった。米軍の軍需物資を供給するための産業労働者向け住宅だけではなく、その下請け労働者を公営住宅として政府が供給することが、日米安全保障上供給することが日本政府の義務とされ、米軍は公営住宅と産業労働者住宅にいずれを優先するかという国内の住宅政策を巡る政治論争を、米国にとっては「腹に痛まない」政策論争で、「高見の見物」を決め込んで与野党対立させ、「漁夫の利」を得て笑っていた。
ベトナム戦争の終焉と政策変更を余儀なくされた住宅政策
ベトナム戦争で米軍が敗北し、兵站基地であるわが国では、軍事産業の活動が終わっても実在する住宅産業の活動を簡単に停止するわけにはいかない。軍需産業はそこで培った産業技術とノウハウを使って、それを利潤追求に向け、軍需産業技術を平和産業に転換し生き延びていった。軍需産業は時代の先端を走る技術であることが一般的で、軍需産業の平和産業への転身は予想以上にわが国の平和産業の発展成長を順調に展開させていった。軍需産業に支えられ発展した住宅産業は、すでに我が国経済の大きな経済活動を担っており、我が国の経済政策上からも重要な役割を担っていた。
政府施策住宅は国家の財政と金融によって、我が国の経済活動の基本となる経済活動に必要な有効需要を生み出し、財政及び金融投資を生み出す原動力になっていた。その政府の住宅投資が、投資額の3倍以上の波及効果を持つとされたことで、我が国の経済政策として政府施策住宅は継続しなければならない政策とされた。国民の住宅事情はむずしい状態にあり、わが国の住宅需要は無尽蔵にある。その住宅需要に応える住宅政策に転換することで、住宅政策需要は十分ある。米軍の軍需が消滅しても、国民の住宅需要を政策需要に組み替えることをすれば、わが国の住宅産業及び経済政策に応える住宅政策を展開できると考えられるようになった。
わが国の住宅政策は、第3期五か年計画以降は、基本的にわが国の経済政策の枠組みとして住宅投資による経済成長を産業連関の関係で進めることとなり、わが国の経済政策と住宅産業政策として住宅政策が展開されることになった。そこには欧米の住宅政策で考えられているような国民の生活環境の形成や、住宅を取得した人々の資産形成はまだ問題として取り上げられてはいない。当時の住宅政策は、わが国の住宅産業を持続させるための需要を住宅政策として生み出すことが先行し、現状を維持できれば、産業及び経済はそれまでの状態を継続できると考えられた。問題は、住宅政策を推進する財源をどのようにして生み出すかということであった。政府は産業連関により経済規模は拡大し、住宅投資は経済成長政策により回収できると考えた。賃貸住宅政策は分譲住宅政策にすることで資金の回収は迅速に進め、急激なインフレにより住宅ローン債務は目減りし、財政金融投資額の回収は容易に進むとされた。国民の所得の増大に比較し、住宅ローン債務は縮小し、持ち家を取得した国民の債務残高もまた縮小する。所得倍増計画は物価を上昇させ、結果的に国民のローン債務を自動的に縮小させ、持ち家を取得することが賃貸住宅の住居費負担より住居費支出を軽くする事態を生み出した。
10年ごとに建て替えを可能にする経済環境
当時の住宅産業界で行われていたことは、プレハブ住宅の販売営業は、「10年ごとに個人が住宅の建て替えを繰り返してもそれを可能にするローン債務の縮小と所得の増大があった」ことは当時の住宅産業界の常識になっていた。政府の賃貸住宅政策から持ち家政策への転換政策は国民の所得の急増とインフレによるローン残債の縮小現象によるものともいえる。今回は、住宅建設計画法の住宅政策で主要な政策として取り上げられた既存木造住宅の建て替え事業について、改めて問題を整理することにした。大都市はこの建て替え住宅によって都市を大きく変化させるとともに、プレハブ住宅産業を建築設計・工事監理・施工と言う建設産業を担う産業のような体裁をとりながら、建築士法、建設業法、宅地建物取引業法の法律上の拘束を掻い潜って、プレハブ住宅産業という商事事業として経済活動を行ない、わが国の住宅政策と住宅産業の中心に押し上げることになった。住宅展示場を中心にして、多数のプレハブ住宅産業が無政府的な広告・宣伝、営業・販売を行ない、住宅営業販売の市場を形成し、その事業を拡大して行った。
プレハブ住宅産業という言葉は生まれたが、プレハブ住宅産業の内容は、企業ごとそれぞれ違っていて、その業務を行政的に消費者の利益を中心に考えて消費者行政として管理する行政は行われていない。その業務としては住宅の設計、工事監理、施工、住宅不動産取引という業務が行なわれているが、それぞれの業務を行政的に監督する建築士法、建設業法、宅地建物取引業法が行政上の管理・指導をする建前になっていても、実際上それを行なう行政対応はできていない。プレハブ住宅産業は、無政府状態と言ってよい。行政上は国土交通省という扱いになっているがプレハブ産業をこれらの建設関係法が管理監督する行政は行っていない。政府はプレハブ住宅産業が求める金融や税制や産業助成政策を行なってきているが、住宅購入者の立場に立った行政指導は基本的に行っていない。
住宅展示場を中心に行われる既存木造住宅の建て替え住宅の営業販売が先行して展示場が建設された。展示場ごとに都市の住宅市場が分割され、その展示場に建設されたモデルホームを営業ツールとするプレハブ産業ごとの人海戦術を生かしたプレハブ住宅販売が既存木造住宅の建て替え事業として行われた。プレハブ住宅産業はそれぞれが獲得した住宅需要をプラモデル方式のプレハブ住宅の加工システムで供給した。その取り組みの住宅供給システムは、プレハブ産業ごとの特性を生かした方法で行われた。既存の建設業者と新たに養成した新材料と新工法を活用した組み立て作業部隊で住宅をつくりあげていく多様な生産システムで、その実態は住宅を建築主の要求に応えて設計、施工している。プレハブ産業は、建築士法や建設業法と対応した既存の建設業として行われていない。住宅販売を目的とした営業半谷を目的とした産業で、プレハブ産業自体が既存の住宅の設計・施工・不動産引き制度には適合していない全く新しい制度として始められた。
(MM第816号)