HICPMメールマガジン第779号(2018.07.11)
みなさんこんにちは
西日本を中心に発生した集中豪雨により多くの人命が失われ財産が失われ、途方に暮れている人たちの情報を聞いて、自分に置き換えて考えるとどうしてよいかがわからず、途方に暮れています。カジノ法を制定させることが国家の重要政策と説明し、国会議員定数を6人も増やす国会審議を優先政策とするのではなく、水害被災者の救済を重要施策にするべきできす。
住宅産業も、東日本大震災の復興事業のように、災害を住宅産業需要と受け止めて、政治家と官僚が産業界と結びついて火事場泥棒になることを繰り返してはなりません。国民すべてが、被災者の気持ちを受け止め、一刻お早く水害からの復興が行われる取り組みをしないといけません。。
今回の「注文住宅」では、現在の日本の住宅産業の中心となっているハウスメーカーが政府の後押しで、法律を蹂躙し急成長した歴史を簡単にご説明することにしました。日本の住宅産業は世界に例を見ない特殊な組織で、政府自身の予想したことのない怪物です。現在の日本の住宅政策と住宅産業を理解するために、政府の住宅政策が如何に使われてきたか、わが国の護送船団方式による「体制翼賛政治」を知ることは必要な知識であると思っています。
第13回 住宅の「文化大革命」と「プレハブ建築技術者教育制度」(MM779号)
現代のわが国の住宅政策の中心にいるプレハブ住宅は、日本の住宅不動産制度を蹂躙して台頭し、住宅展示場を中心にプレハブ住宅企業が会社を挙げて、木造住宅を建て替えプレハブ住宅を建設する「地上げ・建て替え事業」を、中国の「文化大革命」のように「造反有理」で実践した。地上げの対象にされた木造住宅は減価償却のされた「資産価値のない住宅」と言われ、激しい建て替え勧誘の脅迫を受け、建て替えに応じない所有者は、「住宅政策に反抗し住宅産業近代化の妨害者」と政府からも非難された。
軍需産業を支援する軍需産業労働者住宅の供給
プレハブ住宅がわが国の住宅産業政策として取り組まれた表向きの理由は、1960年日米安全保障条約が改訂され、日本が経済的に米国と対等の立場で米国の極東軍事戦略を担うことが決められ、軍需産業を発展させるための軍需産業向け住宅産業の育成に取り組むことが求められた。日米安全保障締結後に求められていた日本の役割は、米軍の極東軍事略を総合的にサポートする役割で、日本政府に求められた役割は旧財閥(軍需資本)及びその下請け産業で働く労働者への住宅供給であった。戦災で都市は破壊され、建材は払底した環境下で、軍需産業で働く労働者向け住宅を新材料、新工法で対応することを求められ、それまでに建材として使ったことのない材料が開発された時代である。
政府は国民の預貯金や保険の積立金を財源とする財政投融資資金を使い住宅金融公庫を創設し、旧軍需資本(財閥)の解散を中止し、軍需産業労働者向け住宅の供給を開始した。重層下請けの産業構造を維持して軍需産業を育成するためには、軍需産業の下請け企業の低所得者向け住宅として公営住宅の供給を、日米間の合意では軍需産業労働者への住宅供給であった。しかし、「公営住宅」は、一般の国民向けの住宅政策と説明して供給した。しかし、戦後のわが国では資材は払底し、新しい材料を住宅建設に投入するため、かつて軍艦、戦車などの軍需兵器の生産に偏重し、「国家は鉄」と言われていた軍需産業は、米国の軍需産業の労働者住宅の供給をわが国で担うため、鉄鋼を戦後復興の大規模建設プロジェクトと併せ、軍需産業で働く労働者の住宅用建材として供給することになった。
住宅建設を行なうための建築資材が払底し、建材輸入を行なうにも外貨が払底していた。日本が石灰岩を生産する国家で、急流河川の国で砂・砂利が無尽蔵にあることから、米軍は米国で開発されたコンクリートブロックをわが国へ紹介し、コンクリートブロックの生産が始められた。戦争中焼夷弾爆撃で大都市火災を経験したことから、都市の不燃化が政府の基本方針になり、不燃材料の普及が取り組まれた。その代表的な建材が、軽量鉄骨とトタン板(鉄板)と石綿スレート(石綿セメント版)とコンクリートブロックである。建設省は軽量鉄骨と鉄板と石綿スレートで構成した住宅と補強コンクリートブロック造の住宅の普及を、㈳日本建築学会と大学と産業界が産官学共同して開発を推進した。
木材使用禁止の「非木造住宅」政策と新材料新工法によるプレハブ住宅
戦争中、山林を乱伐し洪水が発生し、1949年キティ台風では利根川が暴れ、江戸時代の河川改修前の利根川が東京湾(隅田川)に流れ込んだため、東武線沿線の利根川河川流域の60万人の死者が生まれた。その原因は山林破壊の結果、治山治水機能が失われたことが原因となったことが解かった。第2次世界大戦の木造市街地の焼失の教訓として、森林伐採を中止し、木造住宅の建設をしないようにするとともに、天皇陛下を担ぎ上げた「植林による治山治水運動」が全国的に取り組まれることになった。その取り組みが現在の「みどりの日」や植栽祭は天皇の国事行事を象徴するようになっている。
国産木材の利用はしないようにし、代わって、フィリッピンやインドネシアからラワン材を安価に輸入し、ベニヤ板(合板:米国では仮設道路用に鉄板の代用品として開発された耐水性構造用合板)が、わが国では、非構造用板材の代用品として開発された。それを大量生産し、石綿スレートや鉄板(トタン板)と組み合わせ、軽量鉄骨の構造骨組みを囲んで不燃性の「非木造」住宅と乾式工法でつくる不燃構造の住宅が、産官学の共同開発の最先端技術として建設され、新材料・新工法として広く普及した。
国民の住宅事情は極めて悪く、民間レベルで供給できる住宅として、工業生産で大量供給できる工業生産建材を、それまでの建設専門職人技能に依らないでも、素人によって簡単に組み立てられる軽量鉄骨を構造材料として利用した。そこに、波型鉄板、合板、石綿スレートを組み立てる新材料・新工法により軸組住宅と、コンクリートブロックで壁構造をつくり上げる組積住宅は、一躍、国民的な広い需要に応える不燃構造の住宅として、公営住宅および公団住宅という公共住宅と、公庫住宅の融資を受けて民間のハウス(戸建て住宅)を建設する住宅として広く活用されるようになった。公庫融資住宅がプレハブ住宅として多様なアイディアを取り入れ、大都市中心に取り組まれることになった。
住宅生産近代化政策と木造住宅の建て替え
政府は産業界、学界、行政界の総力を結集して、多様な新材料と新工法を使ったアイディア住宅を東京都北多摩郡八坂の東京都の東京街道住宅で実験住宅を建設した。その結果を比較考量し、政府として優れた技術を政府施策住宅として採用し普及する方策を取った。トヨタコンクリートが始めた小型鉄筋コンクリート版プレハブ住宅を建設省住宅局がと木質内装パネルとキーストンプレート「鉄板やね」を組み合わせて量産公営住宅を開発し、軽量鉄骨と波板鉄板と石綿スレートを外壁と屋根に採用した軽量鉄骨住宅は、公庫融資の不燃組み立て住宅として民間の戸建て住宅に取り入れられた。また、波型トタン板を屋根材に使ったコンクリートブロックを使った補強コンクリートブロック造の住宅は、簡易耐火建築物として開発され、その後の全国的に広く公共住宅に取り上げられた。
これらのプレハブ住宅の中心となったものは、既成市街地内にある空き地や戦後応急対策として建設された既存の粗悪な木造住宅(バラック)の建て替えを目的とする「民間個人住宅の建て替え事業」によるプレハブ住宅であった。これらのプレハブ住宅は、軽量鉄骨の鋼製物置をベースに開発された住宅で、住宅金融公庫の個人住宅融資を受けて建設された。既存木造住宅を取り壊す不道徳に対する躊躇が建て替えを妨害していた。そこで、政府は住宅所有者に建て替えに踏み切らせる方法として、既存木造住宅の耐用年数は20年で資産価値は減価償却し、残存価値は10%以下になると明言した、しかも、木造住宅の取り壊しによる建設廃材は利用先がなく、買い取り手がなく建設廃棄物と説明した。
「国家は鉄」と言われた時代を引きずっていた時代に、「軽量鉄骨を構造材料に使い、燃える不安ない鉄板や石綿スレートで外壁を固め、隙間風が入ることのない建具を使った気密構造の住宅」は、「風邪をひく心配のない健康で個人資産を守るプレハブ住宅」と説明がされた。プレハブ住宅には最先端の新建材と新工法が使われ、新しい洋風デザインと生活改善を取り入れたダイニングやキッチンを取り入れられた。もともと木造建築の耐久性を高めるために、通気性の優れた伝統的な木造建築構造も隙間風建築と言われて取り壊されて、気密性に高いモダンなデザインのプレハブ住宅に建て替えられた。
住宅建設ではない住宅のカタログ販売によるプレハブ住宅建設
わが国のプレハブ住宅は、新材料と新工法を活用し、政府施策住宅に組み込む方法で展開することになったが、当時米国においてHUD(住宅都市開発省)が、戦後の高い住宅需要に対応できる住宅政策をOBT(オペレーション・ブレーク・スルー:突破作戦)として取り組んでいた。その情報を得て、通産省と建設省がプレハブ住宅産業と一体になって、工場で住宅を完成する工場生産住宅をモデルに、米国の新しい住宅産業政策に学ぶことになった。住宅産業界は産官学の調査団を組んで米国に「HUD詣で」と言って出掛けた。しかし、米国に出掛けた人たちはNAHB(全米ホームビルダーズ協会)のIBS(インターナショナル・ビルダーズ・ショー)を見学し、それをHUDのOBTと勘違いした。
通産省官僚、内田元亨は米国の連邦住宅開発省(HUD)が取り組んだOBTで学んだことを1967年の「中央公論」誌に「住宅産業論」として発表したことがきっかけとなり、政府に住宅産業課(通産省:産業政策))と住宅生産課(建設省:住宅政策)が設置され、両省が協力し産業政策と住宅政策を両輪に工業化住宅政策が進められた。住宅局がプレハブ住宅需要を公共住宅(公営住宅、公団住宅、公庫住宅)で計画し、財政、金融措置を行ない、住宅需要を政府施策住宅として行なう一方、住宅産業課はプレハブ住宅工場の設備投資の資金支援と経営支援を行なった。
米国のOBTでは工場の高い生産性で住宅を生産し、それを建設場所に輸送する工場生産住宅であるが、わが国は道路事情が悪く完成住宅を、道路を使って建設現場に移動させるかことはできなかった。そのため、工場で住宅を完成させてそれを建設現場に輸送する方法はとれず、現在見るとおりの企業ごとの個性的なプラモデル組み立て方式の住宅となった。米国では既存の現場生産住宅と競合できる価格で供給する工業化住宅の供給を目指したのに対し、わが国のプレハブ住宅は、既存の建設業とは無関係の「住宅のカタログ販売」という過去に例を見ない企業間競争による住宅販売方式であった。
建築士法及び建設業法違反のプレハブ住宅
1970年、私が住宅局建築士班長の職席にあったとき、消費者からプレハブ住宅では住宅を販売する営業マンが頻繁に自宅を訪問し、「お客さんの希望の住宅を建設して差し上げる」と言ってやってくるが、その営業マンには、「建築学の知識も素養もなく、非常に不安である。建設省はプレハブ住宅会社の営業を野放しにしていることをおかしいと思わないか」という厳しい批判が寄せられた。そこで当時「大手5社」と言われたプレハブ会社の幹部を建設省に呼んで事情調査を行なったところ、その業務の実体は住宅のカタログ販売で、建築士法及び建設業法違反の経営であることが確認できた。しかし、すでに社会的に後戻りできないほど広く実施され、法律制度に従わせることは不可能であった。
しかし、消費者はプレハブ業者の違反営業により大きな事故が生まれようとしていた。そこで決定的な事故を未然に防ぐため、住宅局としてはプレハブ産業に消費者保護のため、少なくとも設計施工業務に法律違反の罰則を猶予する代わり、必要最低限の実務教育をプレハブ業者は企業内で行なうことを要請した。私は、以下のような対応策の骨子を提案し、プレハブ業界としてのコンセンサスを形成させた。それは、㈶日本建築センターを文部省に見立て、プレハブ技術者に必要な教育カリキュラムを決定し、それに基づき、㈳日本プレハブ建築協会を教育委員会に見立て、プレハブ企業の教育内容を指導させ、各プレハブ企業をプレハブ教育機関として、建築教育を計画通り実施させることにした。
プレハブ企業としても住宅の設計・施工を行なっている訳であるから、プレハブ住宅の営業販売に建築設計上の知識と技術が必要とされ、プレハブ住宅の建設に建設業の知識を普及しようとしていた。住宅局からのプレハブ業者に対する教育研修の提案は、企業内の設計施工、販売関係者に建築設計施工技術を教育する必要を認め、プレハブ産業の経営力の改善にとっても必要である認識に支えられ、プレハブ教育制度は驚くほど迅速にプレハブ産業界に普及し実効性を挙げることになった。そこでの技術教育は企業ごとのノウハウやプレハブ産業に必要な共通技術を普及させることに役立った。その状況を見て住宅局としては、建築士法違反を理由に行政処分はしないで、業界の自主性を尊重することにした。
ベトナム戦争終了時に変質した住宅政策と都市計画政策
プレハブ住宅は、「住宅用の建材供給と建設労働者の払底」の社会経済的環境の下で開発された住宅政策であった。しかし、そのプレハブ住宅政策を飛躍的に発展させたのは、米国がベトナム戦争に敗北し、政府の住宅政策が軍需産業で働く労働者のための住宅を供給しなければならない状況が消滅したことにある。政府にとっては住宅金融公庫の産業労働者向け住宅だけではなく、公営住宅、公団住宅、公庫住宅という政府施策住宅の全てが、ベトナム戦争終了前までは、軍需産業の下請けや関係産業に働く労働者住宅であった。政府はそれらの全ての住宅を供給しなくてもよい立場に置かれることになった。
米軍の軍需物資生産中止により、それまでの政府施策住宅の供給が必要なくなった。その結果、それらの住宅を供給してきた住宅産業自体が需要を失うことを意味していた。政府施策住宅の規模も大きくなり、住宅産業界だけではなく経済界に与える影響や官僚の天下り先が消滅する問題が重視された。政府は軍需産業からの需要がなくても、住宅産業のために住宅需要を経済政策としてつくらなければならないところに追い詰められていた。そこで国民を最終需要者に、政府施策住宅により住宅産業需要を網羅的にカバーする政策が、経済政策として、ケインズ経済学として政府の財政・金融を総動員して展開された。政府は「居住水準の向上」を「国民」向けに定めた住宅建設計画法であった。
わが国では、1976年時点までに経済は大きく成長し地価は高騰した。その地価を負担する住宅供給は、当時の財政状態では実行不可能であった。そこで、政府は、土地を購入しないで住宅を取得できる方法で、住宅建設計画法の施行を考えた。その一つはすでにプレハブ住宅事業で始めていた既存の木造市街地の建て替え(地上げ)を行なうことで地価の財政支出なしで住宅を建設する方法であった。もう一つは、既に相当の事業量となっていた中層公共住宅の供給である。1968年都市計画法を制定し、農地の保全のため地価を農地地価に凍結した市街化調整区域を利用する方法であった。市街化調整区域で中高層住宅の大規模開発を実施することで、一般市街地並みの地価を負担しないで、住宅を供給する方法を利用が可能になった。これは都市計画法制定時には予定していなかった逆手であった。
都市計画法の制定当時の最大の問題は、都市のスプロールを押さえ秩序ある都市計画を実現することと言われた。市街化区域は既成市街地と市街化を促進する区域とされ、それに対し農業を振興させる区域として市街化調整区域が指定された。それでも市街化区域に入って宅地として高い税金を払っても宅地利用したいとする考えと、濃地並み課税を支払って市街化しないで農業を継続する市街化調整区域とするかは、都市行政と農林行政の利権が対立するとされていた。ベトナム戦争が終わり軍需産業向けの住宅産業需要が消滅し、それまでに政府が育ててきた住宅産業を育成する方策として、政府は住宅用の土地代なしで住宅供給をする方策として御用学者を動員して市街化調整区域の利用に踏み切った。
住宅政策の中心:住宅金融公庫
住宅建設計画法の目的は、それまでの軍需産業による住宅需要が消滅することになったので、それに代わる住宅産業のための住宅需要を国民の住宅需要を高めることで置き換えようとした。国民の住宅事情は悪く高い需要が潜在的に存在したが、国民は所得倍増計画で購買力他向上したが、住宅を購入できようにはなっていなかった。政府は国民の住宅購買力は住宅ローンによって自由に高められると考え、国民の住要求を煽り、それに対応する住宅を供給し、その行為入に必要な資金を融資する政策と立てた。
住宅建設計画法で、政府は「居住水準」という政策目標を掲げることによって、国民の居住水準の向上が新しい住宅政策目標として掲げられたと政府内外から評価されることになった。最低居住水準、平均居住水準、誘導居住水準が定められ、居住者の居住水準が住宅政策目標に掲げられることになり、消費者中心の住宅政策が取り組まれるようになったと多くの人が評価した。しかし、この住宅政策の実質は、国民にできるだけ大きな住宅を取得できるようにすることで住宅産業需要を拡大することにあった。
消費者が住宅産業の希望する住宅を購入できるようにするためには、一つは土地代を支払わなくても住宅が購入できるようにすることと、住宅購入費用をすべて住宅金融(ローン)対象とすることであった。消費者の住宅購入能力は所得が向上しなくても、住宅ローンが住宅購入額まで融資できれば、住宅購買能力を高めることになる。実際上価値が低くても、高額で販売して高い利益を期待する住宅産業に販売額全額を融資対象にする住宅金融政策を行うことが始められた。住宅政策の中心は住宅金融公庫が握ることになったのは住宅建設計画法になってからである。
(MM第779号)