ボザール様式
パリのエコール・デ・ボザールは、18世紀初頭に設立された美術学校で、イタリアンルネッサンス芸術、建築を教育する場として、多くの建築家達の修練場になっていた。 特にヨーロッパの大都市を巡り、その都市に長期逗留をしながら先進文化を学ぶグランドツアーが始まった。それぞれの国の指導者となる一種の登竜門ともいわれるこのツアーにのって、多くの優れた建築家達は、パリのエコール ・ デ ・ ボザールに留学した。エコール ・ デ ・ ボザールでは、アンドレア ・ パラディオが1570年にまとめた『建築四書』を中心とした教育が行なわれたため、多くのパラディアンがここから生み出された。 米国は新興国家として、その国家にふさわしい建築デザインを求めていた。これは日本の明治維新において、米国の経験に学び、建築教育は国家の威信を表わすデザインとして重視されたといわれるように、そのモデルとなった米国でも1865年、マサチューセッツ工科大学に建築学科が設立されたのに続いて、コーネル大学、 シラキュース大学、ミシガン大学、コロンビア大学に、次々に建築学科がつくられた。 これらの大学での教育は、いずれもパリのエコール ・ デ ・ ボザールの教育を真似て実施された。それだけに、本場のパリのエコール ・ デ・ボザールで学んだという経験は、名実ともに建築家としての威信をつけるものと考えられていた。
リチャード・モリス ・ ハント(1827-1895年)は、 そのエコール ・ デ・ボザールに米国から最初に留学した建築家で、その後米国の建築界をリードした。へンリー・ ホブソン・リチャードソンは、 ハーバード大学を卒業後エコール ・ デ ・ ボザールに留学した、 米国で2人目の建築家であり、 ロマネスク様式を米国に伝えた人としても知られている。 その後を追って、リチャードソンの下で慟いていたチャールズ ・ フォレン ・ マッキムと、グランドツアーでパリヘと発ったウィリアム・ラザフォード・ミードは、帰国後、パートナー事務所の構成員の一人であるスタンフォード ・ ホワイトと共に、マッキム ・ ミード・ホワイト事務所を設立し、そこでエコール・デ・ボザールの古典建築の伝統が実践された。日本からも長野宇平治、渡辺節、 村野藤吾がこの事務所に留学している。マッキム・ミード・ホワイト事務所の事業は、 アメリカンボザールやアメリカンルネッサンスとも呼ばれた。ボザール様式は、古代ローマのヴィトルビウスの「建築+書」をルネッサンス時代に復興したもので、基本的に石造建築のデザインである。左右対称形を甚本にして、柱のオーダーを中心に、建築物の全体を基本寸法の倍数と約数とで構成した、 調和のとれた比率でつくられたデザインである。建築物全体の調和と同時に、装飾として花綱飾り、盾形模様、花輪模様を建築物の壁面全体に施し、威厳のある美しさを示していることに特色があり、古代ローマ時代から現代まで、色褪せぬ審美性を維持するデザインである。