HICPMメールマガジン第825号(2019,03.18)

みなさんこんにちは

 

住宅産業者の取り組む産業政策

わが国の住宅建設業者が重要視している取り組みは、集客と成約に偏重し、その技術技能への関心や、工事費用を切り下げるための関心は低くなっている。住宅建設業者が共通に考えていることは、建設業者の利益の追求という結果だけを重視する取り組みである。それは、設計者や建設業者が顧客の資産形成や街並み形成を担っているにもかかわらず、どのような社会貢献をし、消費者に対しどのような産業責任を負えるかの認識が非常に弱いためである。建築士に求められていることは、建築主の将来の生活設計を、住宅設計を通して正しく行うことで「社会が住宅建設業者に求めている社会的責任をはたす」ことである。欧米の建築家が設計する住宅・都市は、未来永劫まで効用を果たすことのできる住宅・都市の設計をすることが求められているが、わが国は目先の売り抜けのためだけで、未来永劫に残る資産を設計する考え方はない。当然一定期間経過した住宅都市は建設廃棄物同然となる。

 

住宅設計の基本的な業務に関し、設計者・施工者として必要な学識経験が重要であることを、あらためて以下の2つの「下流老人」問題が発生している理由との関係で考えてもらいたい。住宅建築設計を人文科学として行っている欧米の建築教育で、基本設計をするために明確にすべきとされている問題は、供給した住宅が購入者の個人資産となるようにするための「基本コンセプト」の検討が重要であることの指摘である。その考え方の基本は、住宅は人類の歴史文化の所産で、しかも、個々の消費者にとって非常に重い経済的犠牲によって取得されるものであるため、住宅は個人に問題と考えるのではなく、人類史的な視点で考えないといけないと考えるようになっている。

 

設計の前提になる「基本コンセプト」

私有財産制を基本に置く社会にあっても、私有財産の代表である個人住宅が集積されて住環境が形成される。その住宅と住宅地の生産関係と富の分配によって、多種多様な「所有と利用の形(生産関係)が生まれる。社会に存在する住宅全体として形成される住環境が、人びとに豊かな生活を提供する社会資産として有効に使えなければ、そこに経営されている住宅は売り手市場にならず、住宅を所有する人たちの資産形成は進まず、住宅を所有する人の豊かな生活の形成は不可能である。我々は、住宅・都市環境を人類の歴史文化の連続性を考えた歴史軸と空間的広がりの連続性の中で、そこで生活する人びとの歴史文化を時間歴連続性と空間的広がりという人々の営みとの関係で考えなければならない。それが住宅・都市を考える「基本コンセプト」として取り組まれなければならない問題である。

 

欧米では既存の住宅不動産に対し、住宅ローンを行なった住宅金融機関が常時その住宅の担保価値と融資残高との関係で金融機関が融資損を出さないように資産価値評価を行ない、住宅不動産の不動産価格とその住宅のモーゲージ残高の差額(純資産価値:エクイテイ)分の住宅ローンを拡大させ、住宅所有者にエクイティ・ローンを使って住宅のリモデリングを実施したり、自動車を購入したり、家具を購入したり、衣服時代の流行を考えた衣服を整えたり、旅行に出かけて豊かな生活を享受するように勧めている。彼らは住宅の不動産価値評価を高めるため、ホームインスペクションを行ない、住宅の計画修繕と住宅の善良管理義務を行なっている。

 

解り易い言葉で言い直すと、私たちが計画する住宅都市資産が、スクラップ・アンド・ビルドをしないで、未来永劫に人々に豊かな生活を提供できる資産として使い続けられるようにするためには、その設計計画段階に、将来の社会をしっかり見通し、周辺地域との関係を十分拝領した計画として計画しなければならない。それが「基本コンセプト」を定めることである。その基本コンセプトは基本的には土地とそこに居住する人の2つの要素で構成され、その2つの要素を基に構想できる「ストーリー」と「ヴィジョニング」をしっかり計画することが重要である。基本コンセプトも社会経済的条件によって変化させられるが、変化させられることがあっても、人類史的な視点を持つことは重要である。

 

「衰退する住宅」と「下級老人」の問題

政府は経済成長政策として住宅政策を行い、住宅産業界は企業利益の拡大の手段として住宅産業に取り込んでいる。すべて短期的な政策は、目先のニーズに対応した事業成果を中心に考え、その政策の10年後、20年後の結果を考えることがなされていない。そこに造られている住宅や街並みが、住宅を購入した将来の個人生活にとって、又は、都市にとって資産になっているかという検討なしに住宅地が開発され、住宅が建設されてきた。住宅政策も住宅産業も厳密に住宅需要者の住宅購買力、住宅ローン返済力を理解して住宅を販売し、住宅ローンを組ませているようには思えない。

 

しかし、成功している事業は、経済的な計画数値の正確性ではなく、事業計画の人文科学的方向性の合理性により、計画段階の途数に対して合理的な計画をつくり都市を成長させてきた。しかし、産業関係者が取引利益を確保することに関心を措いた「フローの住宅」政策の中では、住宅産業が目先の利潤追求を求めて住宅を販売するため、販売額に見合ったローンが政策の基本になり、販売する住宅を購入できるようにローン付けすることが営業販売業務のすべてになり、計画上の矛盾が後送りにされてきた。矛盾が後送りされた結果、現代では「衰退する住宅」と住宅のローン債務が日常生活を苦しくし、「下級老人」を生み出す問題が、殆ど解決方法の分らぬ社会問題になってきている。

 

現在発生している「下級老人」の問題は、住宅ローン返済が不能になって住宅を売却しなければならなくなったときはじまり、その「下級理宇人の住む住宅も街並みも衰退し、それら住宅に対する需要がなく「中古住宅の値崩れ」現象が起き、住宅を売却しても巨額な債務が残される社会問題が生まれている。その理由は、新築住宅を購入させるために「差別化」をしてきたため、価値と切り離した販売価格が設定され、販売額一杯の住宅ローンを供与し販売させた。「下級老人」に追い込まれた人は、販売時に「差別化」のための広告・宣伝、営業・販売に要するサービス経費を住宅の直接工事費(価値)と欺罔して価値の2倍以上の価格で購入させられたためである。

 

建設後20年経過した中古住宅は、例外なく建築士が設計したものであるが、建築士には設計の学識・経験がなく、流行を追っかける住宅設計をし、建設業者が「差別化」により、優れた業務と誤解させて購入させてきた。「差別化」を目的にし、相隣する住宅観の違いを強調するデザインは、それぞれ自己主張をし、住宅地としての調和はないものであるだけである。いずれも住宅自体の品質を向上せず、価値を高めず、高額販売を正当化する「差別化」は住宅の価値評価を高めていない。日本中の街並みが、建築士によって設計された注文住宅としてつくられた事実を見れば、建築士には20年先の設計をする能力がないことは明らかである。

 

住環境と生活の悪循環

「下級老人」の問題は、多くの原因が複合的に関係して生まれる現象であるが、いずれも住宅を購入した際、その購入時に年収の8倍以上もの購買額の半額が、中古住宅になると消滅して、住宅ローン残高以下でしか売却できず、清算すれば赤字になる。資産と信じていた住宅が、大きな負債であることが貧困化の原因になっている。そこで起きている現象は、1976年住宅建設計画法の住宅政策から現代までの「フローの住宅」政策結果である。日本の住宅価格自体がすべて低生産性の住宅産業構造の上で造られてきた上、建設業がサービス業として扱われることで直接工事費以外のサービス業経費が肥大化し、それが持ち家も賃貸住宅も、新築時の2倍以上の価格が家賃または住宅ローン負担とされ、ローン返済ができなり、住宅を売却した結果、巨額な残債だけが残され貧困化しているためである。

 

そして「下級老人」を生み出す原因になった住宅は、疾病、失業、事業の失敗、事故等が転落の直接的な原因になっている。それが経済的悪循環を生み「下級老人」への転落が起こっている。居住者の生活苦から将来への希望を失い、住宅の善良管理をさせる気持ちを失わせている。その結果、住環境は、傷み汚れるままに放置され、建設廃棄物に向かっている。「下級老人」は、魅力のない住宅と、景観植栽がジャングル化し、又は、植栽はすべて切りはらわれ廃車と廃棄物集積場に化し住生活環境が破壊された住宅に取り残され、社会との関係を失った生活をさせられている。「下級老人」が生活し、衰退化した住生活が丸見えの住宅地は、住生活環境と居住者の生活との悪循環が生まれ、貧困化を拡大していく。

 

「定年退職・長寿化」と「下級老人」

「下級老人」の問題は、長寿化により定年退職後の年金生活時間が長くなったことも大きな要因である。年金額はその生活費の20%程度しか補填できず、相当の貯えがないと長期の高齢生活を経済的に安心して営むことができない。昔の日本では現役時代に作った住宅に家族が住んでくれるため、隠居した高齢者は住居費負担ゼロの生活が送れた。現在の住宅は核家族の住宅として敷地一肺に建物が詰め込まれ、その土地建物の一部、または全部を賃貸に出し、本人は敷地内に住む空間を「隠居」として計画できる空間は、戦後の狭小宅地からは無くなってしまった。建築士制度が生まれる以前の日本の住宅建築教育は学校教育として存在しなかったが、日本の歴史・文化・を尊重した伝統技術と伝統技能により、欧米の住宅・建築教育と同じ考え方で住宅も街並みもつくられていた。

 

戦後の日本では建築士制度がGHQの指導で造られたが、そこで政府が行った建築士制度と学校教育として始まった建築教育は、欧米と違って、米軍の兵站基地にさせられたわが国の政府施策住宅は、軍需産業労働者向け住宅しかなかった。特に米軍がベトナム戦争で敗北した後は、米軍への軍需物資を生産する労働者向け住宅の供給に必要性はなくなり、代わって、軍需産業労働者では泣き、国民を住宅購入者とする住宅政策が1976年から始まった住宅建設計画法で始められた。わが国の地価はそれまでの軍需産業を中心として経済成長の結果高騰し、高騰化した宅地が住宅政策の実施を困難にしていた。住宅購入者は新規に土地を取得しなくても住宅を建設できる階層中心に住宅供給する政策とされ、既存の木造市街地を高密度に核家族用の住宅で建て替える政策を行なった。

 

建築学を人文科学として教育を実施してこなかったわが国では、ライフスパン(生涯)の長さで人々の住生活文化を考える常識的な教育が建築学教育をしてこなかった。その建築教育の結果、現在の長寿社会に向けての社会の変化に応えることのできない住宅・住宅地を生み出すことになった。高額な長期の住宅ローンを組んでしか購入できないものを、35年の住宅ローン期間の終了時点にその住宅購入者が購入した住宅との関係での対応を考慮していない結果が、「下級老人」を生み出す原因になっている。

 

欧米では起きていない住宅による貧困化問題

欧米社会では、住宅を処分しなければならなくなったとき、保有している住宅は、個人にとっての資産として計画修繕され、善良管理によって、常に見苦しくない状態に管理され、最低限、住宅を手放せば住宅ローン債務は相殺されている。一般的には住宅は、購入価格以上の価格で売却でき、住宅ローン残債をゼロにして手元に住宅の資産価値増分の現金が残る。その考え方は、昔のわが国でも、同じであった。欧米では基本的に等価交換販売と等価交換金融が行われているため、住宅産業界や住宅金融業界の利益は、住宅を購入する消費者の利益と対等の需給関係で扱われている。住宅を取得する人の利益を考えることは、住宅を供給する人の利益にもなる欧米の「ストックの住宅」の基本の考え方である。住宅産業界での産業モラルとしても、「消費者を粗末にすることは、住宅産業界の自殺行為」と考えている。

 

わが国の住宅産業は、社会に対し「顧客ニーズには何でも応えられる」と誇張したホームページをつくり、そこに掲載されている情報は、「差別化」による顧客誘致対策ばかりである。そこには「消費者の立場に立って住宅を供給する姿勢」は見られない。政府も住宅産業者も、住宅購入者に販売サービスを提供することで、住宅産業を成り立たせている業者と定義されている。提供されたサービスの対価で住宅産業が経営上の収益となるが、サービス費用は一過性で、住宅の価値として残るものではない。つまり、住宅の価値は住宅販売価格からサービス費用を差し引いた額であるが、政府はその差し引かれる額を住宅売却時に取り上げ、それを「減価償却分」と間違った説明をしてきた。

 

住宅購入者に住宅を所有することで、販売価格中からサービス費用が消滅するわけであるから、その価格減少分は「減価償却分」ではなく、もともと住宅の価値として販売価格にしてはいけない欺罔された分である。その欺罔された販売価格全体に住宅ローンを組まされ、住宅購入者の返済額を課題にしてきた。「サービス費用」が住宅販売価格に組み込まれていなかったら、その額に住宅金利を加算した分だけ住宅購入者の負担は低く済んだはずである。住宅ローン額の半額以上がサービス経費の支払い分であるから、住宅建設業者の販売価格の欺罔が、住宅金融機関の貸金利益追求でほぼ2倍に増幅され不等価交換販売と不等価交換金融による住宅購入者の負担額は2倍増されたことになる。

(BM第825号)

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