HICPMメールマガジン第845(2019.09.02)
みなさんこんにちは
第3回
一般の住宅地として最初のTND(セレブレイションの先陣):
ケントランズとレイクランズ
DPZが「シーサイド」の計画に取り組み、全米の大きな関心を惹きつけていたこと、米国の首都ワシントンD.C.の都市人口が拡大し、ワシントンD.C.内の住宅地が不足した。その中で最も人気が高く米国の歴史文化を誇るジョージタウンは、完全に需給関係が需要過多になっていた。その住宅需要は、隣接するメリーランドやバージニアの住宅地開発を拡大した。ワシントンD.C.はアメリカ合衆国の首都であると同時に世界に大きな影響力を持つ中心で、政治家、経済人、文化人、行政官、学者、研究者、芸能人が居住する関係で首都に住居を確保することになる。ワシントンD.C.の面積は限られているため、結果的に、自動車、地下鉄、電車などの交通機関を利用し、ワシントンD.C.の行政区域を超えてワシントンD.C.の首都機能を担い、事実上、隣接州に拡大されていった。
ジョージ・ワシントンが大統領在任中に、アレキザンドリア(バージニア)を首都に編入しようとしたが、反対派は一体の機能を認めた上でワシントンD.C.に編入しない議決がなされた。しかし、米国自体の政治、経済、文化の影響力の拡大の結果、首都の活動を受け止める区域が拡大し、バージニアやメリーランドにはワシントンD.C.と一体的に機能している地域は拡大している。それでも都市は個性とその歴史文化を重視するため、南北戦争時代のリー将軍やジョージ・ワシントン大統領の由来の地域を、首都のイメージを重ねて考える人は多い。現在では時・空間として首都と一体的に首都機能を担うところはワシントンD.C.と一体に開発されている。古くはホワイトハウス(大統領官邸)やキャピトルヒル(国会議事堂)まで、30分以内が首都の高級住宅の目安ともいわれた時代もあった。しかし、現在は首都の高級住宅もその範囲も、時間距離で1時間程度に拡大しただけではなく、交通機関自体の速度も公共交通機関の利便性も改善され、首都の高級住宅地の範囲は拡大した。
そのような状況下でTNDは1980年シーサイド(フロリダ)で着手され、開発要求は首都にも大きな衝撃を与えることになった。重厚長大産業の中心であったボルチモア(メリーランド)がウォーターフロント開発に成功し、産業公害都市から軽薄短小の優れた環境を備えた文化・スポーツ・リクリエーション都市に変身し、首都ワシントンD.C.の高級住宅地の取り組み対象として検討され始めた。
シーサイド(フロリダ)ではTNDリゾートが取り組まれ、一般住宅地へのTNDの期待は、ワシントンD.C.の最大の住宅需要の受け皿圧力がメリーランドに高まってきた。1988年ワシントンD.C.に隣接するメリーランドのテシフェリー・ケントの土地がTNDによる開発対象として狙われた。この土地所有者ケントは英国から移民した英国の植民地時代の英国貴族である。ケントは、その土地を住民に開放して利用させたが、ケントが土地経営をしなくなった後には首都の住宅地開発需要が多数寄せられていた。ケントはかつて領地を領民に開放して利用させた歴史を誇りに思っていた。ケントは1970年代に死去したが、子孫は土地をスプロール都市開発に使うことに反対した。そのため、ケントの土地を除く周辺では都市開発が進んだが、ケントの土地は自然原生林に近い豊かな森を維持していた。シーサイド(フロリダ)の開発情報がケントの子孫の下にも届き、彼らはTND開発に関心を持つことになった。現在、この地には『サイレントスプリング』の著書で、J・F・ケネディの心を掴んだ「塩素系農薬による地球汚染の危機」を科学的に立証し、世界の環境問題に最初の一石を投じたレーチェル・カーソンの研究所(全米地理学会)が置かれている。この地はケントの遺族が、自然地形を守る意思を忖度した土地利用を行ない「ケントランズ開発」となったものと伝えられている。
ケントランズ:人文科学的な都市開発の王道に則ったTND開発
ケントランズの開発は、建築家、DPZ(アンドレス・ドゥアーニーとエリザベス・プラター・ザイバーグ)夫妻の設計でTND(トラディショナル・ネイバーフッド・ディベロップメント)されることになり、米国の最もオーソドックスでアカデミックな都市開発理論によって開発された。その開発に当たっては、「2つの基本コンセプト」を明らかにすることから取り組まれた。「2つの基本コンセプト」は、開発地の「土地」と、そこに「生活することになる人びと」のことを言い、都市開発はこの「2つの基本コンセプト」の歴史・文化を明確にし、その「基本コンセプト」を人文かが手的に発展させ、未来に向けての「ストーリー」と「ヴィジョニング」を構築することから取り組まれた。
「土地」は過去から未来に向けて存在し続け、その「土地」は隣接する土地の歴史文化とその利用で、隣接地相互に影響し合い居住者とともに成長し続ける。一方、「土地」に生活する人びとはそれぞれの歴史文化を担い、個性的な生活を発展させることになる。「土地」と「居住する人々」の相互作用により、「土地」を取得した人びとが土地環境に合った開発を行なうが、「土地」とそこに「生活する人びと」の歴史文化的相互作用によって都市の開発や成長が左右される。そこで、「土地」と「予定される居住者」の人文科学的な調査研究を行ない、将来に向けてのストーリー(TND開発の成長する道筋:物語)と居住者が人文科学的に満足するヴィジョニング(文化イメージ)作りが始められる。
ケントランズはメリーランドに位置するが、既にワシントンD.C.首都圏であり、そこに居住する人は計画時点でワシントンD.C.の米国社会の指導的立場に立つ人たちである。このような基本コンセプトを人文科学的に明らかにすることで、将来に向けて必然性のある開発計画を立案することになる。都市開発をこのような方法で立案する理由は、開発計画が中途で何らかの事故に遭遇した場合でも、その開発事業を成功裏に繋いで行けるための基本的条件の整備のために必要である。
ケントランズの場合には、ディベロッパーは全面的にDPZの決定した計画通り進められた。通常の場合、都市開発計画者がストーリーとヴィジョニングを定めた後、事業主は計画者の定めたストーリーとヴィジョニングに納得・同意後、開発計画者は事業主の要求を聞き、それが基本コンセプトに基づくストーリーとヴィジョニングに適合している範囲で、「開発の設計条件」に取り入れられ基本設計が始められる。事業主といえども、人文科学的に見て合理性のないストーリーやヴィジョニングに抵触する計画条件を設計要求にすることは自殺行為になる。米国の優れた住宅地開発計画では、この教科書通りの取り組みを行なっている。そのため、基本コンセプトである土地とそこに生活する人びとの条件の調査検討が先行して行われ、将来に向けて高い必然性の認められる計画が作成されている。
ケントランズの開発は、ワシントンD.C.のジョータウンと同じ基本コンセプトの3要素(デザイン・機能・性能)を持つ住宅地開発を、メリーランドのケントランドに実現することであった。ケントランズはジョージタウンのように都心まで20分の位置にはないが45分程度の時間距離にある。ジョージタウンに居住を希望する者に生活させるために、計画する基本コンセプトが具体化された。開発の3要素の中で最も重視されたことはTNDのヴィジョニングである。それはケントランドへの入居者が帰属意識を育む基本で、その住環境は歴史文化的(人文科学的)考察の最も重要なことであった。
ケントランズを特徴づけた2つのヴィジョニング
米国は西欧と比較すれば中世(時代)を持たない国であるが、米国には西欧文化を継承し、西欧に負けない歴史文化への執着は高い。ケントランズのヴィジョニングにおいて、土地所有者であったケントが、その地形や地質を考慮し、領民たちの利益のために土地を活用した歴史こそ重重要な鍵となる。米国が英国の植民地時代から民主国家建設に向けての準備は、植民地時代の首都ウイリアムバーグから、南北戦争後、フィラデルフィアに首都を定め、やがてワシントンD.C.に繋がる都市計画と都市デザインに現れている。民主国家建設のヴィジョニングは、ウイリアムズバーグのモールがワシントンD.C.のモールに引き継がれた。ジョージタウンの中心を走る路面電車のブールバール(中央並木道)に取り入れられ、それがケントランズのブールバールのヴィジョニングに取り入れられている。
ケントランズのヴィジョニングは、中央を走るブールバール計画と建築様式である。「ケントがヘビーティンバー構造で造ったバーンズ(農業倉庫)」を伝統的スタイルでリモデリングし、それをインフォメーションセンターにした。ケントランズ中心の湖(構想の湖)を俯瞰できるセンターの前面道路越の丘陵には、ウイリアムバーグズの「総督邸のマンション」を建設した。この2つの建築物はケントランズの歴史文化を象徴するヴィジョニングとして建てられた。住環境のヴィジョニングはケントランズの担ってきた歴史文化と米国の植民地時代の首都のデザインとを象徴するものである。
ケントランズのTNDでは現代的な設計解釈も持ち込まず、100年以上前に使われていた材料と工法の歴史文化を愚直に守ることが設計コンセプトとされ、屋根材にはレッドシダーのシェイクのラフ材を用いた。シェイク材の施工コストは高くなったが、ヴィジョニングはそのモデルの担っている伝統的材料・工法にすることでTND環境を実現した。ケントランズでの実践の経験を、ケントランズの隣接地、レイクランズの開発に生かし、そこでは模造材利用を活用し経済性の追及が取り組まれた。ケントランズの取り組みは、デザイン、材料、工法の全てに関し、TNDの思想通りモデルとされる住宅建設の歴史文化に立ち返ることから実践した。その伝統的な技術の読み替えは、基本となる工事をケントランズで実践した後、レイクランズで改良に取り組んだ。それは伝統的材料と工法とは有機的関係で利用され、既存の職人の伝統的技能を効果的に引き出し、伝統的な材料と工法とを一体的に再現することが必要と判断されたためである。TND開発ではその材料と工法について歴史と伝統に遡ることで、材料の耐久性や普遍的技能の活用を含んで、時間軸を考慮した経済性の追求の問題を提起した。
ケントランズとレイクランズプロジェクトのTNDの開発思想
ケントランズの開発では、「シーサイド」(フロリダ)でその開発思想そのものが社会的に予想外の支持を受けたことから、TND(伝統的近隣住区開発)について、住宅建築を構成する材料や工法にまで伝統への回帰が取り組まれた。当然、建設コストは高額になることは分かっていたが、それでも伝統的な材料と工法に立ち返ることが、住宅生産全体を見たところ、新建材や新工法に流れて「安かろう、悪かろう」に安易に流れる住宅産業に、「住宅生産デザインの原点回帰」を促した。伝統的な建材と工法に回帰することは、そこでの歴史文化を考えた生活を考える上で必要な取り組みと考えられた。
特に米国では1960年代FHAが住宅生産の合理化を推進するためOBT(オペレーション・ブレーク・スルー:突破作戦)を展開し、モ―バイルホームを推進した結果、伝統的な建設技能を担う職人やホームビルダーと工場生産住宅の間では激しい対立抗争を生み出した。住宅産業界は住宅を工場製作するシステムと建設現場で伝統的建築施工技能を使って住宅生産を行なうホームビルダーとクラフツマンの取り組みに2分された。OBTの取り組みではTNDは全く考慮されず、米国の住宅産業に経済主義偏重技術問題を提起した。ケントランズの取り組みは、非常に冷めた目で技術革新を再評価させた。伝統的近隣住区開発において消費者が愛着を感じるものは、伝統的な技術と工法による住宅で、そのモデルになる住宅及び住宅地の技術に関して伝統的近隣住区論が登場した当時に使われた材料と工法を再評価し、開発事業の全面に消費者が懐かしさを実感するデザインを引き出した。
TNDの現代におけるフィージビリティ(実現可能性)として、近隣住区論が社会に登場した1920年代の住宅地計画論に教条的に回帰するものではなかった。「ケントランズでは偽物は使わない」コンセプトで事業が展開され、シーサイドの社会的影響も加味され、ケントランズの人気と話題性は非常に大きなものになった。ケントランズにおける取り組みは、近隣住区論が登場した時代の住宅及び住宅地設計を掘り起こし、それに関連する建築設計、建築材料設計、建築施工を検討するものであった。それは時代の回顧ではなく、伝統と現代との対比をする関係で検討が行われた。 現代実施され、経済的合理性を発揮している設計・施工、材料開発、材料施工はより合理的で優れたものが実施された。
ジョージタウンを意識したケントランズ
DPZはケントランズがジョージタウンに匹敵する住宅地に成長するためには、そのダウンタウンがケントランズの10倍以上の消費人口を集中させることが必要であった。その大きな後背人口を最初からケントランズで開発出来ない。DPZの目論見は計画した規模のケントランズが成功し、その成功を評価した社会がそれに倣った計画に取り組めば、それらの開発に必要なダウンタウンをケントランズの中に成長する余地を予め計画することで、ケントランズにはジョージタウンのようなダウンタウンを生み出せる。ダウンタウンの面積はニーズに合わせて柔軟に計画できる。ケントランズが成功し、それに引き継いだレイクランドの販売価格が合理的に切り下げられ居住者が拡大した。DPZはダウンタウンを挟んで人高密度の高い共同住宅地区を計画した。ケントランズの知名度により周辺開発が促進され、それらの増加人口がケントランズのダウンタウンを利用した。その結果、ダウンタウンの提供するサービスも商品の品質は向上し、高い満足をTND開発全体に与えることになった。
ケントランズの周辺に開発された住宅地に居住者をケントランズのダウンタウンに受け入れることで、ケントランズの住宅地を当初計画とは違ったリクリエーションを取り入れたダウンタウンに進化した。DPZによるダウンタウン計画と並行して、ケントランズには高所得のアクティブ・リタイアメント・コミュニテイを計画した。この計画はディズニ―が取り組んだ「セレブレイション」に大きな影響を与えた。ケントランズが取り組んだダウンタウンとアクティブ・リタイアメント・コミュニテイのコンプレックスの思想がセレブレイションに取り入れられ、結果的にセレブレイションを成功に導いた。
ケントランズにジョージタウンに存在するショッピングセンターや業務地を造ることがなければ、ケントランズは首都の最も強力なダウンタウン機能を実現することは出来ない。ケントランズのダウンタウン機能は、周辺に開発される住宅地が求めているダウンタウン機能を担うよう計画された。計画的に熟成した都市計画的な広がりで、周辺開発と相乗効果を組み込んで実現した。ケントランズのダウンタウンは、レイクランズとケントランズに刺激されて取り組まれた周辺の開発により、ジョージタウンに匹敵する後背消費人口を惹きつけ、首都のダウンタウンに相応しい賑わいを持つようになっている。
ICPMメールマガジン第845号(2019.09.02)
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第3回
一般の住宅地として最初のTND(セレブレイションの先陣):
ケントランズとレイクランズ
DPZが「シーサイド」の計画に取り組み、全米の大きな関心を惹きつけていたこと、米国の首都ワシントンD.C.の都市人口が拡大し、ワシントンD.C.内の住宅地が不足した。その中で最も人気が高く米国の歴史文化を誇るジョージタウンは、完全に需給関係が需要過多になっていた。その住宅需要は、隣接するメリーランドやバージニアの住宅地開発を拡大した。ワシントンD.C.はアメリカ合衆国の首都であると同時に世界に大きな影響力を持つ中心で、政治家、経済人、文化人、行政官、学者、研究者、芸能人が居住する関係で首都に住居を確保することになる。ワシントンD.C.の面積は限られているため、結果的に、自動車、地下鉄、電車などの交通機関を利用し、ワシントンD.C.の行政区域を超えてワシントンD.C.の首都機能を担い、事実上、隣接州に拡大されていった。
ジョージ・ワシントンが大統領在任中に、アレキザンドリア(バージニア)を首都に編入しようとしたが、反対派は一体の機能を認めた上でワシントンD.C.に編入しない議決がなされた。しかし、米国自体の政治、経済、文化の影響力の拡大の結果、首都の活動を受け止める区域が拡大し、バージニアやメリーランドにはワシントンD.C.と一体的に機能している地域は拡大している。それでも都市は個性とその歴史文化を重視するため、南北戦争時代のリー将軍やジョージ・ワシントン大統領の由来の地域を、首都のイメージを重ねて考える人は多い。現在では時・空間として首都と一体的に首都機能を担うところはワシントンD.C.と一体に開発されている。古くはホワイトハウス(大統領官邸)やキャピトルヒル(国会議事堂)まで、30分以内が首都の高級住宅の目安ともいわれた時代もあった。しかし、現在は首都の高級住宅もその範囲も、時間距離で1時間程度に拡大しただけではなく、交通機関自体の速度も公共交通機関の利便性も改善され、首都の高級住宅地の範囲は拡大した。
そのような状況下でTNDは1980年シーサイド(フロリダ)で着手され、開発要求は首都にも大きな衝撃を与えることになった。重厚長大産業の中心であったボルチモア(メリーランド)がウォーターフロント開発に成功し、産業公害都市から軽薄短小の優れた環境を備えた文化・スポーツ・リクリエーション都市に変身し、首都ワシントンD.C.の高級住宅地の取り組み対象として検討され始めた。
シーサイド(フロリダ)ではTNDリゾートが取り組まれ、一般住宅地へのTNDの期待は、ワシントンD.C.の最大の住宅需要の受け皿圧力がメリーランドに高まってきた。1988年ワシントンD.C.に隣接するメリーランドのテシフェリー・ケントの土地がTNDによる開発対象として狙われた。この土地所有者ケントは英国から移民した英国の植民地時代の英国貴族である。ケントは、その土地を住民に開放して利用させたが、ケントが土地経営をしなくなった後には首都の住宅地開発需要が多数寄せられていた。ケントはかつて領地を領民に開放して利用させた歴史を誇りに思っていた。ケントは1970年代に死去したが、子孫は土地をスプロール都市開発に使うことに反対した。そのため、ケントの土地を除く周辺では都市開発が進んだが、ケントの土地は自然原生林に近い豊かな森を維持していた。シーサイド(フロリダ)の開発情報がケントの子孫の下にも届き、彼らはTND開発に関心を持つことになった。現在、この地には『サイレントスプリング』の著書で、J・F・ケネディの心を掴んだ「塩素系農薬による地球汚染の危機」を科学的に立証し、世界の環境問題に最初の一石を投じたレーチェル・カーソンの研究所(全米地理学会)が置かれている。この地はケントの遺族が、自然地形を守る意思を忖度した土地利用を行ない「ケントランズ開発」となったものと伝えられている。
ケントランズ:人文科学的な都市開発の王道に則ったTND開発
ケントランズの開発は、建築家、DPZ(アンドレス・ドゥアーニーとエリザベス・プラター・ザイバーグ)夫妻の設計でTND(トラディショナル・ネイバーフッド・ディベロップメント)されることになり、米国の最もオーソドックスでアカデミックな都市開発理論によって開発された。その開発に当たっては、「2つの基本コンセプト」を明らかにすることから取り組まれた。「2つの基本コンセプト」は、開発地の「土地」と、そこに「生活することになる人びと」のことを言い、都市開発はこの「2つの基本コンセプト」の歴史・文化を明確にし、その「基本コンセプト」を人文かが手的に発展させ、未来に向けての「ストーリー」と「ヴィジョニング」を構築することから取り組まれた。
「土地」は過去から未来に向けて存在し続け、その「土地」は隣接する土地の歴史文化とその利用で、隣接地相互に影響し合い居住者とともに成長し続ける。一方、「土地」に生活する人びとはそれぞれの歴史文化を担い、個性的な生活を発展させることになる。「土地」と「居住する人々」の相互作用により、「土地」を取得した人びとが土地環境に合った開発を行なうが、「土地」とそこに「生活する人びと」の歴史文化的相互作用によって都市の開発や成長が左右される。そこで、「土地」と「予定される居住者」の人文科学的な調査研究を行ない、将来に向けてのストーリー(TND開発の成長する道筋:物語)と居住者が人文科学的に満足するヴィジョニング(文化イメージ)作りが始められる。
ケントランズはメリーランドに位置するが、既にワシントンD.C.首都圏であり、そこに居住する人は計画時点でワシントンD.C.の米国社会の指導的立場に立つ人たちである。このような基本コンセプトを人文科学的に明らかにすることで、将来に向けて必然性のある開発計画を立案することになる。都市開発をこのような方法で立案する理由は、開発計画が中途で何らかの事故に遭遇した場合でも、その開発事業を成功裏に繋いで行けるための基本的条件の整備のために必要である。
ケントランズの場合には、ディベロッパーは全面的にDPZの決定した計画通り進められた。通常の場合、都市開発計画者がストーリーとヴィジョニングを定めた後、事業主は計画者の定めたストーリーとヴィジョニングに納得・同意後、開発計画者は事業主の要求を聞き、それが基本コンセプトに基づくストーリーとヴィジョニングに適合している範囲で、「開発の設計条件」に取り入れられ基本設計が始められる。事業主といえども、人文科学的に見て合理性のないストーリーやヴィジョニングに抵触する計画条件を設計要求にすることは自殺行為になる。米国の優れた住宅地開発計画では、この教科書通りの取り組みを行なっている。そのため、基本コンセプトである土地とそこに生活する人びとの条件の調査検討が先行して行われ、将来に向けて高い必然性の認められる計画が作成されている。
ケントランズの開発は、ワシントンD.C.のジョータウンと同じ基本コンセプトの3要素(デザイン・機能・性能)を持つ住宅地開発を、メリーランドのケントランドに実現することであった。ケントランズはジョージタウンのように都心まで20分の位置にはないが45分程度の時間距離にある。ジョージタウンに居住を希望する者に生活させるために、計画する基本コンセプトが具体化された。開発の3要素の中で最も重視されたことはTNDのヴィジョニングである。それはケントランドへの入居者が帰属意識を育む基本で、その住環境は歴史文化的(人文科学的)考察の最も重要なことであった。
ケントランズを特徴づけた2つのヴィジョニング
米国は西欧と比較すれば中世(時代)を持たない国であるが、米国には西欧文化を継承し、西欧に負けない歴史文化への執着は高い。ケントランズのヴィジョニングにおいて、土地所有者であったケントが、その地形や地質を考慮し、領民たちの利益のために土地を活用した歴史こそ重重要な鍵となる。米国が英国の植民地時代から民主国家建設に向けての準備は、植民地時代の首都ウイリアムバーグから、南北戦争後、フィラデルフィアに首都を定め、やがてワシントンD.C.に繋がる都市計画と都市デザインに現れている。民主国家建設のヴィジョニングは、ウイリアムズバーグのモールがワシントンD.C.のモールに引き継がれた。ジョージタウンの中心を走る路面電車のブールバール(中央並木道)に取り入れられ、それがケントランズのブールバールのヴィジョニングに取り入れられている。
ケントランズのヴィジョニングは、中央を走るブールバール計画と建築様式である。「ケントがヘビーティンバー構造で造ったバーンズ(農業倉庫)」を伝統的スタイルでリモデリングし、それをインフォメーションセンターにした。ケントランズ中心の湖(構想の湖)を俯瞰できるセンターの前面道路越の丘陵には、ウイリアムバーグズの「総督邸のマンション」を建設した。この2つの建築物はケントランズの歴史文化を象徴するヴィジョニングとして建てられた。住環境のヴィジョニングはケントランズの担ってきた歴史文化と米国の植民地時代の首都のデザインとを象徴するものである。
ケントランズのTNDでは現代的な設計解釈も持ち込まず、100年以上前に使われていた材料と工法の歴史文化を愚直に守ることが設計コンセプトとされ、屋根材にはレッドシダーのシェイクのラフ材を用いた。シェイク材の施工コストは高くなったが、ヴィジョニングはそのモデルの担っている伝統的材料・工法にすることでTND環境を実現した。ケントランズでの実践の経験を、ケントランズの隣接地、レイクランズの開発に生かし、そこでは模造材利用を活用し経済性の追及が取り組まれた。ケントランズの取り組みは、デザイン、材料、工法の全てに関し、TNDの思想通りモデルとされる住宅建設の歴史文化に立ち返ることから実践した。その伝統的な技術の読み替えは、基本となる工事をケントランズで実践した後、レイクランズで改良に取り組んだ。それは伝統的材料と工法とは有機的関係で利用され、既存の職人の伝統的技能を効果的に引き出し、伝統的な材料と工法とを一体的に再現することが必要と判断されたためである。TND開発ではその材料と工法について歴史と伝統に遡ることで、材料の耐久性や普遍的技能の活用を含んで、時間軸を考慮した経済性の追求の問題を提起した。
(NPO法人住宅生産性研究会戸谷英世)