HICPMメールマガジン第813号(2018.12.17)
みなさんこんにちは
わが国の住宅政策は、「国民の所得とかけ離れた住宅価格を国民の購買力の範囲である」と説明し 販売させてきたことで、欧米の「住宅購入者の支払い能力を考えた住宅政策」と基本的に違っている。その国民を住宅ローン破綻に追い込む住宅産業本位の消費者を欺罔の政策は、不等価交換販売と不等価交換金融によって構成されていた。住宅価格は高額であったが、その高額な価格に見合った住宅金融を行ない、住宅産業が販売を希望する住宅にはその価格全額を対象に住宅金融が行なわれたため、目先の購買力を「住宅国民に購入できない住宅はない」政策にした。
政府は住宅ローンを世界最長の融資期間(35年、やがて、2世代ローンと言い、50年)とし、住宅の価値を「差別化」に依り不等価交換による販売価格相当の価値がない住宅に、価格相当の価値があると欺罔し、住宅購入者の生命保険の死亡時の保険金を担保に融資を行なった。その結果、住宅購入者は高額な住宅ローン返済に悩まされ、返済できなくなったときには巨額な損失が発生するため住宅を手放さなくなる。住宅購入後20年近く経過した住宅の価値は減価償却により10%以下になっている。わが国の新築住宅の価値(直接工事費)は、その販売価格の40%)で、中古住宅の売却益は、購入直後の住宅購入価格の40%未満で、減価償却した価格以下になる。ローン債務は販売価格が基本になるため、中古住宅を売却してもその残債は殆ど減額されない。
居住していた中古住宅を取り上げられたわけであるから、住む場所を奪われるので、生活のため新たに住宅に手に入れなければならない。持ち家は無理であるので賃貸住宅に居住することになる。賃貸住宅は供給過多で空き家も多く家賃としては安いものも多いが、管理が行き届かないものが多く安全性や住環境として貧しいものが多い。住宅戸数自体は世帯数を大幅に上回っているが、空き家の管理水準は使い捨てされる状態でその品質は悪い。政府は戦後一貫して住宅の量的供給を政策の中心に据えた住宅政策を行ない、戸数総数が既存設数を上回ることが出来れば、「国民の住宅は買い手市場になるので、居住水準は向上される」政府と政府は国会答弁だけでなく、メディアに対し口癖のように言ってきた。
戸数主義
この住宅政策を「政府の戸数主義(住宅政策)」と言われてきた。政府は一貫して住宅産業が多数の住宅を供給できるようにする政策を実施してきたが、住宅を求めている国民の住宅需要に基づく住宅政策は行なってこなかった。世帯数を上回る住宅戸数が存在するようになって以来、政府は、「基本的に住宅問題は解決した」と言い、それ以降はより高額な住宅を国民に販売しようとする住宅産業界のための販売政策を支援することを住宅政策の中心に据えてきた。
1960年日米安全保障条約が締結され、わが国は米国と東南アジア戦争の軍事費用を分担する同盟国と位置付けられ、わが国で自給するエネルギー(石炭)を放棄させられ、代わって米国資本が支配する石油を強制的に購入させられ、また、食糧自給を続けてきたわが国の農業を破壊して、米国から農産品と畜産品の輸入を受け入れさせられてきた。それが60年日米安保条約に伴う自由化政策である。この自由化政策の一環として住宅政策にも米国の住宅産業技術が持ち込まれることになった。
自由化政策と同様、全て技術は高いところから低いところに流れてくる。産業が破壊されれば失業者が社会に増加する。日本は米国に撮って軍需物資を供給する兵站基地と位置付けられていたため、米国の関心は軍需物資を米軍に安定した安値で供給し続けることであった。そのためにはわが国に失業者が常時高い水準であり続けることが必要であった。農業と炭鉱と言うわが国の2大自給産業を崩壊させることが大量の失業者をわが国国内に充満させることであった。米国は、わが国の2大自給産業を崩壊させることで米軍の兵站基地機能を安い労賃で軍事物資を生産させ、少ない兵站基地費用負担で実現させる方法と考えた。それが結果的に、10年間以上の期間、年10%以上のわが国の高度経済成長をもたらしたが、それを予想できた人は国内外にいなかった。
第38回 日米安全保障条約に集約される戦後のわが国の政策(MM第813号)
戦後のわが国の住宅政策が住宅建設計画法を立法し、「居住水準の向上」を政策目標に掲げて実施されたことから、それを消費者本位の住宅政策の始まりのように勘違いして住宅政策史としてオーソライズしようとする人たちがいる。なぜ住宅建設計画法政策に返還しなければならなかったのかの説明は、専ら国民の住宅需要に応えるためと言う説明がなされてきたが、その事実認識は間違っている。私自身、当時住宅局にいて感じていたことは、ベトナム戦争の終焉によって住宅政策自体が破綻するのではないかという不安があった。官僚たちは生産性が低い建設産業に足を引っ張られ、住宅価格は高い状態を改善できず、既存の建設労働者を使わないで住宅を建設できないかと苦慮していた。
OBT(HUD:住宅都市開発省)の影響で生まれたプレハブ住宅
そのとき米国の住宅産業ではアメリカンモーターズの社長ロムニーがHUD(住宅都市開発庁)の長官に就任し、住宅を工場生産に転換する政策OBT(オペレーション・ブレーク・スルー)を実施に移した。その政策に政府は反応し、プレハブ住宅政策の舵を取った。そこで政府の財政政策と金融政策で育てられたプレハブ産業は官営企業同様で官僚に利権も関係していた。米国がベトナム戦争で敗北した結果、軍需産業労働者が激減し住宅需要が減少したから住宅産業政策を撤退させる訳には行かなかった。
日本の住宅産業自体が国内経済で簡単に動かすことが出来ないような大きな既得権を獲得し、ベトナム戦争の敗北があっても、住宅産業はこれまで供給してきた実績を拡大するような政策の推進を求めていた。軍需産業需要が消滅しても国民の住宅事情は悪く、それに代替する潜在需要を掘り起こす(顕在化)ことが産業界から求められた。わが国の住宅事情は非常に悪く、潜在する住宅需要は非常に高くその需要を顕在化すれば、需要は軍需産業向け住宅需要など問題にすることはないと考えられた。
実際に行われたことは経済的に必然性があったことで、軍需産業需要は国民の高い住宅需要に置き換えられた訳であるから、政府は国民の貧しい住宅事情を利用し、住宅産業やわが国の経済成長のために住宅需要を組織化した。その結果、住宅政策は、軍需産業向け需要に相当する住宅需要を国内に見込むことが出来た。住宅建設計画法による住宅政策は、直接国民の住宅事情の改善を目指した国民を幸せにする目的の消費者本位の住宅政策ではない。住宅産業にそれまでの軍需産業による需要を住宅金融公庫による産業労働者向け住宅政府施策住宅需要として保証した産業本位の政策であった。
国民の高い住宅需要は戦後20年間近くまともな住宅政策が行なわれてこなかったため、その住宅環境を改善を望む国民の要求を、政府が住宅建設計画法として住宅産業界や経済政策のために利用したものである。国民の利益に沿って国民取り組まれた国民のための政策ではない。住宅産業界や経済界のために行った住宅政策が国民の居住水準の改善を促したことは事実である。しかし、その政策目的は住宅産業界とわが国経済発展であり、「国民は住宅を取得して貧困化する」方程式に組み込まれた。
住宅需要の消滅と住宅産業救済政策
1975年ベトナム戦争が終結し、わが国を米軍の兵站基地とする条件は基本的に変わらなくても、軍需産業自体を拡大させるための住宅供給が不要になった。それまでの公営、公団、公庫による軍需産業労働者向けの住宅政策は突然不要になり、その住宅政策を継続する政策上の根拠を失った。当時住宅官僚であった私は、わが国の住宅政策も消滅するのではないかという危機感に襲われたことを今でもはっきり思い出す。そして、これまで政府施策住宅として供給した企業、地方自治体、日本住宅公団、地方住宅公社等住宅供給事業主体が米軍の兵站基地として住宅供給をする目的は、軍需物資の生産自体を供給する目的が消滅し、軍需産業向け労働者に住宅を供給する目的自体が失われた。国民の住宅困窮状態が継続していても、その解消はそれまでの住宅政策の目的ではなかった。
住宅産業が軍需産業労働者向け住宅供給をする必要がなくなって、住宅産業としての需要が喪失した結果、放置すれば住宅産業には大打撃を与えわが国経済は不況に陥る。そのため、それに代わる政策目的が必要になった。幸か、不幸か、わが国の住宅事情は低迷していたので、「国民に住宅供給を行なう政策」は、国民の支持を受けることは間違いなかった。政府は、軍需産業労働者需要に変えて、一般国民を最終需要者として、これまでの住宅事業主体と住宅産業界の過去の住宅需要を保障し、併せて、わが国経済成長を財政誘導型の住宅政策を展開した。「軍需産業労働者向け住宅供給を確保する住宅産業向け需要」から、「国民を最終需要者とする住宅産業向け住宅政策需要」への政策転換が、1976年にはじまる「住宅建設計画法」時代の始まりであった。それは軍需産業労働者向け住宅施策を、「国民を最終住宅需要者とする住宅産業向け住宅政策」に転換し、政府が住宅政策により住宅産業支配をする「官指導のケインズ経済学による政府施策住宅により有効需要を生み出す経済政策」であった。
「4大苦」を全面的に解消した住宅金融政策
住宅産業界は「建設用地不足」と「資材不足」と「労働力不足」と「資金不足」の「4大苦」に悩んでいた。そのうち資材不足と労働力不足に対しては住宅生産工業化政策としてプレハブ住宅政策を進めてきたが、それに加えて「建設用地不足と建設資金不足」を補う施策として考案された。その住宅政策が住宅金融公庫による既存木造住宅の「建て替え」と、住宅建設資金を住宅産業界の要求どおりに「建設資金」を住宅ローンとして供給する政策であった。「建て替え政策」を進めるためには既存住宅の取り壊しを積極的に行える環境を整備する必要があった。そのためには、「建て替え事業の理論武装」と、「潤沢な建設資金」が必要であった。政府は既存住宅の評価方法として、木造住宅が20年で価値がゼロになる「減価価償却理論」を持ち込んだことと、建て替え事業に必要な建設資金を全額信用融資(クレジットローン)し、建築主に資金がなくても建て替えできるようにしたことである。
大都市は戦災により焼失し、大都市の不燃化対策が国家的な大きな関心事となっており、鉄(鉄骨、鉄板)、スレート、瓦、土塗り壁と言った不燃材料と防火構造が新しい住宅都市づくりの基本と考えられ、政府も建築学会も不燃建築の推進を進めていた。一方、伝統的な建材の供給不足と、建設技能者の供給不足の労働環境下で、コンクリートブロックと工業化住宅が巨大な住宅需要に対応できる材料として台頭し、それらが工業化住宅工法の開発を促した。その中で軽量鉄骨、鉄板、アスベストを組み合わせた軽量鉄骨を構造体にし、アスベストスレートを屋根材と外壁材に使った住宅は。わが国に無尽蔵の資源(砂と砂利とセメント)で作られるコンクリートブロック構造材料として使った不燃構造住宅、又は、簡易耐火建築物の住宅として、政府の不燃化対策に応える形で全国的に急拡大した。
それは社宅や公共賃貸住宅という軍需産業労働者向け「賃貸住宅政策」から、「個人が住宅購入者になる」「持ち家政策」への転換で住宅産業需要を維持する政策であった。その住宅政策への転換を、これまでの公営住宅、公団住宅、公庫住宅という公共住宅政策主導で軍需産業の下請け産業に働く低所得者に公共住宅を供給する住宅政策から、住宅金融公庫を活用して国民大衆を相手に、住宅産業(プレハブ住宅)が利潤追求の出来る「持ち家政策」転換し、住宅購入必要資金を全額供給する政策への大転換であった。この政策はすべての国民の住宅購入力を住宅産業の要求通り高めることになった。
公共住宅の供給事業主体は、公営、公団、公社で、事業主体は同じでありながら、賃貸住宅政策から持ち家政策に転換し、住宅取得に関しては住宅ローンを組んで、国民が直接住宅を取得する政策になった。住宅経営者が軍需産業または公共団体で、そこに軍需産業労働者が居住する賃貸住宅はなくなり、それに代わって、入居者自身(国民一般の労働者・消費者)が住宅を取得するか、又は、公営、公団、公庫と言う公的事業主体が供給する公的賃貸住宅を一部(公営住宅)を残して、原則的に公団及び公社は分譲住宅政策に転換し、国民が購入できる持ち家政策に方向転換する方法に置き換えた。この政策転換を、政府は「賃貸住宅から持ち家へ」の政策として、又は、「量から質へ」の国民向け住宅政策との説明し、国民の豊かさが住宅を直接取得が実現されると説明してきた。
建設行政から金融行政へ
政府内部ではそれまでも公営住宅、公団住宅、公社住宅は一般国民を対象に建設行政と言う「物づくり行政」として住宅を供給してきた。しかし、住宅建設計画法による住宅行政の基本は、それまでの絶対的に不足する公共住宅を賃貸住宅で供給する建設行政ではなく、住宅産業が供給する住宅を国民に購入させ、建設資金を回収する持ち家産業政策に転化した。住宅政策は戸数主義の政策から離れられないという勘違いが社会的に存在し、住宅政策は公的賃貸住宅を量的に供給する政策という勘違いを打ち崩す必要があった。住宅建設計画法時代の住宅政策は、従来の住宅政策を踏襲してきたと社会的に存在してきた勘違いを打破することになった。住宅建設計画法による住宅政策は、政府がそれまで育ててきた住宅産業に継続して住宅を建設し続ける政策を、賃貸住宅から分譲住宅に転換して供給させることであった。そのためには、住宅産業が販売しようと希望する住宅を国民が購入できるように消費者の住宅購買力を高めることと、高騰する地価の影響を避けることであった。それは次の3つの取り組みであった。
- 国民の住宅購買力を住宅産業が販売したいと希望する住宅を購入できるように高めることである。その方法として住宅金融を緩和して住宅産業が販売しようと考える住宅価格全額を住宅ローン対象にすることである。そのためには融資額を住宅購入額全額とし、住宅ローン融資期間を世界最長にし、一旦住宅を購入した人は、生涯その住宅に縛られるようにする。
- 政府は限られた資金を住宅建設費に振り向けさせるためには、土地代負担を「原則ゼロ」にするために、当時わが国の都市住宅の圧倒的多数を占める木造住宅を建て替えさせることで、土地を新規に購入しないでも既存住宅より多くの住宅を供給できると考えた。
- 1968年都市計画法が制定され、市街化区域と市街化調整区域が設けられ、市街化区域は既成市街地と計画的に住宅地開発を進めるところとされ、市街化調整区域は都市開発を原則禁止し農業振興を図る地区と定められ、農地並みの課税により土地価格を押さえていた。政府は市街化調整区域に大規模宅地開発を行ない、既成市街地と比較すれば、地価「ゼロ」同等の宅地開発を行なった。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)