HICPMメールマガジン第782号(2018.07.20)
皆さんこんにちは
今月中に、HICPMの会員の皆様には今月井上書院から発行される単行本『アメリカの住宅と建築家、日本の住宅と建築士』をお送りします。私がこの著書でこだわってきた「資産形成のできる住宅とできない住宅の設計を行なう建築家と建築士」の問題をお読みいただき、HICPMの運動の一部をお伝えします。今、NHKの大河ドラマで「せご(西郷)ドン」が取り上げられ、岩倉具視が登場するが、「岩倉遣欧米調査団が欧米で見たもの」が「ルネサンス建築」で、それがジョサイア・コンドルを工部大学校に招聘し、ルネサンス建築設計のできる技術者教育をわが国の大学建築で始めることになった理由で本書はその背景を解説した。わが国の明治の建築デザインの原点になったことでもある。
建築デザインと西欧思想の関係は、大河ドラマ「せごドン」では扱わないと思うが、現代のわが国の建築教育の原点が、西欧思想を抜きにした「西欧建築図案の模写」を基本にした近代建築教育にあった。それは「わが国の近代化のためにルネサンスを学びたいが、西欧思想は日本人の魂を抜き取る恐れがあるので受け取れない」とした実利本位の「和魂洋才」教育で、現在のデザイン教育の伏線となっている。建築デザインは、欧米では社会思想を建築物をとおして社会に訴えるために使われ、建築思想なしの建築デザインは欧米では考えられない。西欧の建築家は、社会思想家であり政治家であった。
今回は、欧米における建築設計教育の考え方を、わが国の建築教育との比較で扱うことを通して、「欧米の建築デザイン教育」とは、「何を目的にしているか」を説明した。建築デザインは欧米では建築家の社会思想を、建築物を通して社会に訴えるものと考え、建築家の意思を社会に向け、そのアーキテクチュラル・ボキャブラリー(建築用語)を使って訴えようとしている。建築学教育では歴史建築の様式建築の学習を通して建築設計者は、自らが建築設計で使用する建築用語を習得する訓練を自らに科している。建築設計とは自分の持っている建築用語で建築思想を伝えることでもある。
第17回 社会の考え方を基本的に形成する住宅・建築・都市環境教育(MM782号)
建築教育の目的は何か。わが国では、建築教育は「物づくり教育」と言われ、建築主の依頼に応えその求める効用を有する建築物をつくることだと言われてきた。それはわが国の常識であって世界の常識ではない。欧米では、建築物は土地に定着し一旦建設されたら未来永劫に存在し続けるから、建築は国民合意の下で造り維持管理されるべきものと考えている。そこに欧米と日本の建築教育の違いがある。
欧米の住宅・建築教育、日本の住宅建築教育
欧米の住宅・建築・都市設計は、歴史文化に根を張った社会思想を訴える都市環境を形成し、維持管理する学問として教育されてきた。そこでは住宅・建築・都市を過去・現在・未来の歴史に根差した都市環境の形成を、住宅・建築・都市思想と歴史・文化を継承する居住者のアイデンティティとして表現する。建築家は人類史的な連続性の中で、建築や都市のあるべき姿を考え、現代と連続する未来を計画する能力を培う。そのため、欧米では建築家は建築・都市思想を学び・育み、建築家固有の歴史観に基づき構築した住宅・建築・都市思想を設計により具体化する。それが建築家による設計計画する創造的建築学教育(人文科学)の目的である。それは工学教育の目的にはならない。
わが国の建築教育は工学教育であるため、建築設計や住宅計画、又は、都市計画・都市設計は、政治家や行政機関を含む建築主の欲望を満足するよう設計されてきたが、住宅・建築・都市の設としての建築学を学んでいないうえ、開発地の担ってきた歴史文化が形成する住宅・建築・都市を長期的に考えない。そのため、そこの居住する人たちの過去から未来に続く生活を組み立て、開発地とそこで生活する人達の歴史・文化・生活を考えた社会性のある人文科学的検討を行なわれていない。そのため、わが国の建築系大学を卒業しても、社会性のある歴史文化を対象とする人文科学発展を考えることができず、建築士が設計した建築物は、歴史文化的合意が得られず社会的寿命が短くなっている。
わが国では建築主が実現する物づくりの目的のために、功利主義的判断に立って即物的に建築主の要求の実現を考えるが、長期的かつ社会的な視野をもたないため、歴史文化的判断を失い、住宅地や都市を熟成する歴史的な連続性が疎かになっている。わが国の都市計画の多くが、都市工学、土木工学、建築工学で「都市計画」の名称での機能本位の教育で行なわれている。そのほとんどは都市機能と性能要求に応える都市施設計画で、要求に応えられなければスクラップ・アンド・ビルドすればよいと考え、環境を居住者が主体的に経営し改変するものではない。欧米の人文科学としての環境教育は、未来に向けて成長する都市居住者が、主体的に経営対象となる都市環境を計画する教育である。
工学的視点から人文科学的視点へ
欧米では、住宅・建築・都市は歴史的に連続する縦の時間軸の空間と、地区から地域へと空間の面的な水平に広がる影響を受ける人文科学的空間教育として学習する。そのため、住宅・建築・都市問題は3次元空間に時間軸を加えた4次元の広がりを持った歴史的、地域・地区的繋がりの中で考えている。1954年に米国のプルーイット・アイゴー団地(ミズーリ)で実施されたスラムクリアランスの事例は、事業完成時には物づくりの代表的成功事例とされた。しかし、数年が経過しスラムは以前以上に悪い住環境に逆戻り、取り壊しを余儀なくされた。「物づくりによって、生活環境の本質は代えられない」という反省が、スラムクリアランス事業に転換をもたらし、HOPE6でニューアーバニズムの思想が採用され、「物づくりから、居住者の環境改善の意識改革」への事業の質的大転換を行なった。
都市空間を「ハードな物のスクラップ・アンド・ビルドというスラムクリアランスの考え方の時代の取り組み」では、環境を対症療法的外科手術を行なったが、スラムの本質を変えられず再スラム化した。一方、「居住者の生き方の問題として、居住者のスラム改善に確信が持てる多様な事業を継続し繰り返すことにより、環境改善に確信を持たせる良循環に転換させ、居住者の意識で、人々に主体性をもたせて、住環境の改善に確信を持たせるように変化させた。その結果、環境改善の展望を居住者自身に確信させ、スラムを生活改善することのできる「量から質」への環境に変化させた。
戦後、米国では産業構造の急変により郊外開発が急速に進み、都心の空洞化現象が発生しプルーイット・アイゴー団地に見るような都市衰退が発生した。その環境改善として、物理的に劣化したスラムを完全に取り壊し、ル・コルビュジエに主張する建築思想に共鳴するミノル・ヤマサキの建築思想を全面的に実現した機能と性能の優れた住宅地として建設された。都市再開発事業は環境再建に成功したが、人々の意識や生活環境改善に失敗し、再びスクラップ・アンド・ビルドしなければならなくなった。
その苦い経験は、その後の米国の都市政策に広く一般的に反映されることになった。住宅都市開発省(HUD)が取り組んでいるHOPEⅥ計画では、スクラップ・アンド・ビルドによる「物づくり」(ハード)の都市再開発政策を放棄し、ニューアーバニズムによる住宅地の内部的な生活の質(ソフト)を変えることで、不良化した住宅地を、住宅地の経営の中心となる土地の所有者の自治組織であるHOAを構成する居住者の生き方まで変えることで、住宅地を質的に更生することになった。
ニューアーバニズムによる都市再開発
ソフトな政策は、都市の歴史・文化・生活を尊重し、「量から質」という弁証的な方法を取り入れた「ニューアバニズム」の都市の環境改善の質的改善の方法として取り組まれ、着実に居住者に希望を与える住環境改善事業として成果を上げてきている。ワシントン州が取り組んだウエスト・シアトルの「ハイポイント」計画は、ボーイング社のブルーカラーがリストラされ、悪循環が進行しスラムが形成された。最初はハードな公営住宅による「物づくりの環境改善事業(スラムクリアランス)」で対応したが、そこで都市再開発後、再び犯罪が多発し、貧困者の居住する不良化が昂進するスラムを形成した。
スラムから流出した汚染水が丘陵地全体を汚染し、河川に鮭が遡上できなくなる環境問題が生まれ、地域全域のスラム化が進行した。そこで取り組まれたスラム対策は、スラムに居住する子供や老人に希望と生きがいを持たせる取り組みと並行して、「鮭の遡上できる河川」の水質改善と一体的に環境改善が取り組まれた。その結果、水質改善を中心にした環境改善は計画通りの成果を上げ、多くの人たちにとって自然環境に優れた住みたくなる環境と評価され、そこで住宅を購入することで資産形成ができる住宅地に変質させた。この地で住宅を取得することは資産形成になると人口が増加し続けている。
その取り組みの基本になっているものが、スクラップ・アンド・ビルドではなく、居住環境と人びとの生活の「量から質へ」の転換という時間軸を組み込み、居住者全員で改善を繰り返し、「計画的な改良が質的環境の変革をもたらす」建築学に基づく住宅・建築・都市計画の弁証法的発展に依り、飛躍的な環境改善が行われた。地域の居住者が環境改善の必要性を認識し必要な改善を実施し、その結果、居住者自身が主体性をもって住環境を改善できる確信が持てて、環境改善が実現できた。
物づくりの工学部建築教育と、人びとの歴史文化を作り育てる人文科学部建築学教育
住宅・建築・都市計画教育は、欧米では人文科学部建築学科で行われてきた。欧米の人文科学教育が、わが国では工学部建築工学科の住宅・建築・都市計画教育のハードな物づくり教育であるが、欧米の人文科学教育は行なわれていない。欧米の建築学は、住宅・建築・都市はすべて人々の歴史・文化・生活を担う空間(環境)として捉え、土地が担ってきた歴史・文化・生活を前提に、土地利用を享受しようとする人たちの担ってきた歴史・文化・生活を居住者の経済的な負担能力で実現させ、その環境を未来に向けて継続発展させることができるように、関係者の合意形成に基づき計画作成しようと考えている。
一方、わが国の大学工学部での住宅・建築・都市計画学は、政治、経済、社会環境の変化に合わせて、求められる物理的要求に応えて住宅・建築・都市のスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す教育になっている。それは政治や行政の要請に応えた、高い効用を実現するもので、遅れた効用しか発揮できないものは放棄し、それに代わって効用の高いものを「物づくり」の工学教育として採択してきた。公共事業を牽引したスクラップ・アンド・ビルドの財政指導の経済政策は、GDPを最大化する経済政策の基本に据えられたため、わが国の物づくりの工学教育は、経済政策と平仄を合わせ、目先の利益本位に、政治的意思や経済的利潤の最大化を目指して、効率本位の事業を繰り返してきた。
わが国の工学教育に対する人文科学の建築教育は、人類の生活環境を歴史・文化・生活の視点で、人類の過去・現在・未来の時間軸を通して、住民が中心になり合意形成に基づき環境改善を進めていくもので、その量的環境改善が一定以上進むと、都市の住み良さが質的に向上し、人びとの意識が変化し始める。居住者が環境改善に確信と展望とが持てると、街が質的に飛躍改善するという「量から質へ」が実現する教育になっている。欧米の建設工学(シビル・エンジニアリング)は、わが国の土木工学、都市工学、建築工学と基本的に同じ学問であるが、欧米では、建築学に基づいて設計された基本設計を予定した目標額で、その計画どおり、経済合理性を追求して施工する学問である。
CPM/CPNによるCM事業
わが国では公共事業が中心的な事業となっているため、公共工事の実現が政治の目的となり、経済合理性の追求は二義的目的になっている。公共事業は重層下請けで工事を細分化して、発注者から末端の専門工事業まで重層に下請けされるため、中間下請けの流通経費が嵩み、工事費の過半が重層建設業者の流通経費に使われ、それが建設工事費を高くしている。多くの建設業者が仕事に関係できることで、国土交通省では重層下請けの構造を「建設サービス業」と説明し、下請け業者に工事を分配し、口銭(粗利)を得て生活を成り立たせている建設業全体を鳥瞰して、「建設福祉業」とも揶揄してきた。
欧米では、下請けが担う専門工事を元請け建設業者が、原則「1層下請け」で、並列に工事経営管理(CM)を行なうため、わが国と比較すると工事費総額は約半額で済んでいる。欧米では「建設業営管理学」が確立し、工事を重層請負工事ではなく、建設業者がCPN(クリティカル・パス・ネットワーク)に従い、工事工程通り仕事を組み立て、重層下請けをしないで工事を計画的に実施できる。その技術が建設業経営管理(CM:コンストラクション・マネジメント)で、欧米の建設業,リモデラー、開発業者は、大学のCM学部で学んだCM技術を駆使して工事の経営管理をし、高い工事生産性を挙げている。
わが国では都市工学、土木工学、建築工学で都市施設づくりの教育がなされているが、それは欧米の人文科学部建築学教育の都市計画ではなく、「物づくり」の学問である。欧米の建設工学(シビルエンジニアリング)のような材料と工法を定める実施設計ではない。わが国では工事を経済的合理性に従って設計する教育は行われていない。近年、欧米のCM技術が日本に紹介されたが、それを「CM方式」いう名称を付け換骨堕胎し、元請け利益を拡大する下請け管理技術が、CM技術のように紹介されている。「CM方式」と言われるものは、欧米のCM技術と「似て非なるもの」である。
欧米では、都市計画は歴史・文化・生活を過去・現在・未来の時間軸で扱う建築学で教育され、「人々の意識や行動を育て」、古い環境を新しい環境に育てることで都市計画の人文科学的取り組みになっている。そこでは住宅・建築・都市環境を享受する人びとの経済力を含む家族の歴史・文化・生活を考え、人びとに将来に向けての生活の展望を与え、住民の自発的な意識により住民合意の住環境を計画している。そこでの最大の関心は、環境管理の中心を担う者は居住者(消費者)で、その居住者に環境管理の意識付けを行なう住民自治による住宅地の経営管理を行うことに重点が移っている。
日本の建築士法と米国の建築家法
わが国の「建築士法」、「建設業法」及び「建築基準法」は、1950年GHQの占領政策として、米国の「建築家法」、「建設業法」及び「UBC(統一建築法規)」をモデルに立法された。その中で建築設計を担う建築士に求める技術技能は、米国の建築設計・工事監理業務をモデルに、また、建設業に関しては、その業務履行に必要な業務を履行するために必要な建築教育及び実務経験を前提にして制度設計が行なわれた。建築基準法は全国適用とされ、「確認済み証の交付を受けなければ建築物を建築することはできない」とされたため、日本の建築教育は建築基準法を遵守することに偏重し、建築教育は確認申請に合格する設計図書(代願設計)の作成と勘違いされることになった。
建築士法の立法趣旨に沿う形で建築設計教育は行われず、建築士の受験資格が建築士法通り行われないで受験させ、建築士試験の合格のみで建築士資格が与えられてきたため、結果的に建築士法の立法趣旨に矛盾した建築教育を容認し、建築士法に違反した建築設計及び工事監理の実務が行なわれてきたため、建築士法との矛盾が生まれ、建築設計と工事監理が行なわれ、建築士法と矛盾した業務が横行することになっている。この矛盾が正しく解決されないと、国民に不利益を及ぼすことになる。
現行の建築士法で定められている「建築士」は、わが国の建築教育は米国と同じという前提で構築された。しかし、米国の建築学教育と日本の建築教育は異質であり、わが国には建築設計・工事監理業務自体の実務研修が行われていない。さらに、建築士試験は設計・工事監理業務能力を試す試験ではない。わが国の大学建築工学教育の修了試験と代願設計図書の作成試験を行い、合格者に建築士資格を与えているため、建築士法で定める設計・工事監理業務を担う能力を持たない者に建築士資格を与え、設計・工事監理業務の就業制限をかけた結果、設計・工事監理能力のない建築士に設計・工事監理させている。
「建築士」資格とは、「求められる技能」を問われない「資格のための資格」:
特に、建築士試験の合格率は低く「難関」とされる資格試験であるため、社会的に建築士は建築技術の能力と経験を国家が認めたと勘違いさせてきた。建築士試験に合格すると建築設計に必要な学識経験がないのに、名刺に「建築家」の英語(Architect)記載する者が多数いる。建築士法では設計・工事監理業務には就業制限がかけられ、確認申請で建築士による設計・工事監理が確認審査要件とされるため、建築士の中には米国の建築家気取りになり、「名義貸し」でリベートを得ている建築士もいる。
ハウスメーカーは実力を伴わない建築士は「無用の長物」と判断し、建築士は「名義借り」で形式を整え確認申請を行ない、設計・工事監理業務は建築士を使ってはいない。本来、建築設計・工事監理は建築士にしかできない高い技能を必要な業務であるから、建築士法で高い業務報酬規定が定められている。現在の建築士には、建築士法で期待している設計・工事監理能力のある人は殆どいない。
建築士の多くは、基本設計も実施設計も行う教育訓練を受けておらず、建築士法上では建築士以外は設計・工事監理業務はできない。単に建築基準法に適合する説明設計(代願設計)ができる特殊な建築設計者である。そのため、その特殊技術を逆手にとって、「設計・工事監理業務は建築士に依頼しないと法律違反になる」と代願設計のできることを、建築士の営業独占のトークにしている。
肩書としての「建築士」と違反建築を確認する商売(民間主事制度)
わが国の建築士法が立法趣旨どおりに施行できていないことは、関係者の間では周知の事実である。私が建設省住宅局建築指導課で建築士法の施行責任者の立場にあったとき、建築士の受験資格を建築士法の立法趣旨に合わせようとしたができなかった。学校教育としての建築教育は、東大建築学科が行なっている建築教育が、建築士法で定めている建築教育と見なす扱いが行政上されてきた。建築の教育カリキュラムは文部省の所管で、両省の協議に持ち込み合意を得ないことには変更できない問題であった。
それ以上に問題であったのは、東大の建築教育の見直しや受験者の実務経験の審査を厳しくしようとしたが、住宅局の技術官僚の多くが東大卒業生で、建築士の既得権を脅かす議論自体を進めることができなかった。その上、建築士法で考えている設計・工事監理業務が社会で実施されている例は少なく、建築士の受験資格条件として設計・工事監理の実務経験の厳格な審査は、設計監理業界の既得権を理由に、「変更はできない」結論(住宅局)であった。建築士が利権化しているのである。
その後、建築基準法が改正されてそれまでの確認事務を行なう建築主事の業務を民間の営利事業として行なえるようにする民間建築主事(確認検査)制度が東大都市工学科の卒業生が官民一体で作り上げた。まさに、東大の建築教育を象徴する確認制度を東大の学閥が商業活動に利用したもので、姉歯耐震偽装問題として社会問題化された。しかし、その問題が究明されていく過程で、日本ERIに代表される確認審査機関が確認審査で手抜き工事で集客する制度として利用したことが明らかになった。その結果、国土交通省がメディアに公表した耐震危険建築物の最終対応は竜頭蛇尾に終わった。
都市工学(東大)及び社会工学(東工大)卒業生の建築士受験資格
建築士法では受験資格として大学の建築教育を履修したことと規定し、東大建築学科を基本的なカリキュラムとすることが住宅局の行政事務として引き継がれていた。新たな申請を受けた東大都市工学科、及び東工大社会工学科の2大学の建築教育内容を審査したが、基本となる東大建築学科同様、建築設計教育を体系立てて実施している大学はなかった。また、基本設計及び実施設計を作成する教育もなかった。建築設計教育自体を戦前の意匠教育と考え、その教育は関東大震災後建築教育から放棄され、建築設計教育を建築学教育として実施するカリキュラムも教師も大学には残されていなかった。
当然、実施設計を作成し、それに基づいて工事費を見積もることも大学の建築教育では全く行われていなかった。それは半世紀近く昔のことであったが、現在、大学で建築教育を担当している人から仄聞したところ、その状況は現在も40年前と同じで旧態然の状態が継続している。わが国の大学で建築教育を履修しても建築設計学を履修していないわけであるから、建築士の大多数は設計・工事監理も、施工管理能力を持っていない。その意味では、建築士の設計・工事管理能力は、一搬市民と同じ素人レベルで、建築士法で設計・工事監理の職能を守られた建築士に、建築士の学識経験はないのである。
同じ時期に、防衛大学校も工学部の卒業生の建築士受験資格を与える要求が出されていた。その教育内容は歴史役に言えば軍事工学で、古代ローマ時代の土木工学と同じで、わが国の土木工学と基本的に同じである。土木工学科卒業生に建築士の受験資格を与えているならば、防衛大学校卒業生に建築士の受験資格を与えることも考えられたが、工学技術としては同じでも、軍事工学と建築工学と同じと見なすことには抵抗があり、中央建築士審査会の意見を求め、そこまで拡張することは行なわれなかった。
建築教育関係者に問いたいこと
現在は情報化社会といわれ、インターネットを使えばたくさんの情報が手に入る。特に最近の学校教育ではインターネットを使った教育が行なわれているので、住宅・建築・都市計画に関係した教育に関しても、わが国と世界の建築教育は別の教育であるにもかかわらず、わが国と欧米との違いは行政上だけではなく、学校教育上も全く問題にされていない。わが国の建築教育関係者は、何故それを問題と認識しないのか。わが国と欧米の住宅・建築・都市を見聞するだけでその違いの大きさは明確で、わが国の後進性が理解できない筈はない。わが国の建築教育で利益を得ている人たちがそれを温存している。
建築教育は歴史・文化・生活を扱う人文科学と考えないと住宅設計自体取り組めない。世界の建築家が設計する内容は新しい創作活動で、それをするためには住宅・建築・都市計画の学問自体を人文科学的に学び、その設計条件を住宅の建設される土地と、そこに住宅を建築しようとする建築主の人文科学的条件を整理分析し、設計条件を整理することから始めないと設計業務は始められない。わが国の建築学は、欧米の建設工学(シビル・エンジニアリング)に属する学問と説明されてきたが、その教育内容を備えていない。欧米の人文科学(ヒューマニティーズ)としての建築学とは異質で、建築基準法に適合するための代願設計に過ぎない。建築士は、その既得権に胡坐をかいている。
建築士法は欧米の建築家(アーキテクト)法に倣って立法された。その業務報酬規程(建築士法第25条)は建築士の利益を重視し、米国に倣って規定されている。実際に建築家が学ぶべき学識経験がわが国の大学教育と実務で経験できず、建築主から提示させられた条件を確認申請用の代願設計にするだけの業務である。そのため、建築士法で期待されている学識経験を基にした創作的設計業務になっていない。建築士法で定められている学識経験の規定に立ち返り、建築教育を再構成すべきである。そのためには文部科学省と東大を筆頭にわが国の建築学教育を実施している大学が教育を見直すことである。
建築士法と大学の建築学教育との関係をどのように考えるかの問題は、建築士は行政法上の資格で行政目的実現のためであるのに対し、大学の建築学教育は学問研究のためであるので必ずしも連動しなくてもよいという意見もある。しかし社会全体を考えると、少なくとも建築の設計・工事監理を行う技術者が必要とされ建築士法が存在している訳であるから、学校教育では設計・工事監理業務が建築生産に必要であると認識し、その受験資格を満足させる教育が学校教育でされるべきである。少なくとも社会に出て建築物の設計・工事監理業務を行うことを希望する学生のために、受験資格に該当する教育を行なう学校は、世界の建築教育と同等の建築学教育で、わが国だけ例外にする理由はない。
わが国の建築教育が孤立してよいか
建築教育は地球上広く行われている学問であり、日本の建築教育も世界の建築教育との比較検討により同等の教育内容を決めることが適当である。基本設計、実施設計という用語も世界の建築教育で広く使われており、その教育は人文科学として行なわれている事実もある。わが国の建築士法制定時と同様に、欧米先進国に倣って制度を整備することに不都合があるとは思われない。その意味ではわが国の大学における建築教育を米国の建築教育に倣うことに特段の不都合があるとは思えない。
これまで説明したとおり、基本設計や実施設計方法は、欧米の建築教育で一般的に行われた教育である。そのまま受け入れてよいと思われる。そのためには東大が大学の建築教育の歴史も実績も大きいから、外部から指摘される前に、東大自らその教育を全面的に見直し、国内外の建築関係者から尊敬される教育内容に改めることが最も穏当な改善方法である。学校教育と並んで問題になっている実務経験に関し、わが国の建設業界で論争の対象になった「設計・施工一環」と「設計・施工分離」論争は簡単に結論が出せず、設計施工一環でも分離でも、そこには「設計・工事監理業務」はありうる。
しかし、建築士の受験者が、実質的に設計・工事監理業務を行ったと認められれば、申請主義で設計・工事監理業務経歴は受験者の申請で認めてもよい。受験資格を満足する設計・工事監理実務経験者は現在の10分の1以下に激減しても、建築士法通りの建築士をつくるためには、法律上の規定通りに建築士法は実施するべきである。建築士とは如何なる知識、経験と能力を発揮できる技術者であるかが社会的に定まっていないところに大きな問題がある。建築士法そのものの「価値」が問われている。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)